反復練習とその限界 ①

だれかと技能を競い合う、という道に身を置き続けて生きてきたこの半生において、みずからを成長させる手段はつねに、反復練習であった。

 

考えてみれば、それは当たり前のことだ。だれかと本気で競い合うひとは少なくとも、その道に秀でていなければならない。チュートリアル的なひととおりのカリキュラムをこなすだけで戦える分野などないし、仮にあるのならば、その分野にはまったく競技性がない。それがいかに難しい作業だったとしても、チュートリアルをこなすのはあくまでスタートラインに立つための作業、だれしもが当然やっていると想定される作業だ。競技ではそんな基礎的なことは問われない。競うべきものは、勝利と呼ぶに値するものは、その先にしかありえないからだ。

 

そして競技者の例に漏れず、わたしは長らく、なにかをやっているということと競っているということを区別しなかった。二十五年の半生、そのなかでわたしがもっとも長くを捧げてきたのがプログラミングコンテストだが、そこには常に達成すべき勝利があった。コンテストに出場するための言語の仕様を覚える努力は、わたしに言わせればまったく努力ではなかった――なぜならそれはあくまで必要経費であって、反復練習ではないからだ。

 

そして実際、払わねばならなかった必要経費は、練習そのもののコストとは比較にならないほど小さかった。といってもそれは、わたしが優秀だという意味ではない。こういうコンテンツは普通、練習を始めるところまではすぐに到達できるような入り口が整備されているのだ。

 

そのほかの競技もそうだ。わたしは中学まで野球をしていたけれど、野球を始めるのは簡単だ。だれかに向かってボールを投げるという操作に、何十時間の研修は必要ない。思ったところに投げたり、速い球を打ち返したりするのは難しいけれど、それはあくまで、反復練習によって解決されるはずの問題だ。大学受験とは反復練習の最たる例で、教科書に書いてある内容はじゅうぶん知っている前提で、わたしたちは問題を解く能力を鍛え上げる。たくさん解く、ただそれだけの作業によって。教科書を理解しているだけでは、おそらく受験には受からない。なぜならあくまで、それはスタートラインに過ぎないからだ。

 

さて。

 

だが世の中には、反復練習の段階にたどり着くことすら難しいことがたくさんある。

 

理由は多岐にわたる。ひとつは単に、反復するには時間がかかりすぎるという問題だ。大きなプロジェクトを回す技能を手に入れたいとして、ひとつのプロジェクトに十年の期間がかかるのなら、なにかに慣れるのより先にひとは寿命を迎えてしまう。つまるにだれかが巨大プロジェクトなるものをうまく回したいとして、そのうまさを反復練習で手に入れようと思ってはいけないのだ。必要なのは経験ではなく、経験がない中でもどうにか場を動かすこと。技能は死ぬまで発達しきることのなく、だが同時に、理解の境地はまったく求められない。

 

ほかにもある。反復しようにも、やるべき作業が見当たらない。大学受験の勉強なら問題集を解けばいい、プログラミングコンテストならネットの海を探せばいい。だが最先端の社会問題を解析したいと思っても、問題は練習できる形では作れない。「社会では答えのない問いに向き合う必要がある」とはおそらくこのことで、あらかじめ練習に使えるような、問いと答えの組がつねにありうるとは限らない。

 

そして、最後に。反復のスパンも短く、問題をつくることだっておそらくできるけれども、けっしてそのような練習がなされないようなものごとだってまた、ある。競技ではなく、競技人口もなく、しかるに反復練習が求められない領域もまた、あるのである。

 

そう、スタートラインに立ちさえすれば、それで十分な領域が。