読書趣味 ①

 読書趣味とはいいものである。自己紹介で毎回困ることになる、趣味の欄を埋めるのにちょうどいいからだ。

 

 趣味というものをわたしたちは固く考えがちだ。とくにオタクを自称する界隈では、余計にその傾向が強い。オタクの集まりの中でなにかを趣味であると言い張るには、私生活がその趣味を中心にして回っておらねばならないわけで、理想的には勤務時間中のものを除くたいていの時間と労力は(そしてより理想的には職務中も)、その趣味のことを考えるのに充てられていなければならない。

 

 もっともわたしたちのおおくはそんな理想を体現出来やしない。そんな基準を採用すれば、ほとんどの人間は無趣味だということになってしまうから、ある程度の譲歩は許されている。だがそれでも、ここ一年間まったく手を付けていないとか、完全に自由な時間があるのにもかかわらずなんとなくそちらに手を伸ばしていないまま平気でいられるということになると、それはもう趣味とは呼び難いなにかになってくる。

 

 いやはや、さらなる譲歩も可能ではある。というのも、なにかを趣味と呼ぶのはそのひとの主観的な問題にすぎないからだ。たとえもう何年も真面目に取り組んでいないことであっても、そのひとがいまだにそれを愛していると言い張れるのであれば、それはまごうことなき趣味である。

 

 そして実際、自己紹介の場などで初対面の人間を相手にしたとき、そうはっきりと言い切れる人間は少なくないだろう。かくいうわたしもその一員であり、熱心に取り組んでいたのがもう何年も前のことになる趣味を、いまだに履歴書に書き続けている。面接官程度ならそれで騙せるし、実際に趣味であった時期があるのだから、そうすることに良心の呵責はない。

 

 しかしながら。騙すべき相手が自分だということになると、とたんに話は難しくなる。以前は胸を張って趣味だと言えていたことに対する、ゆるやかな情熱の喪失。あることを趣味だと主張するたびに胸の中でたしかに鳴り響く、それはいささか誇張だろう、の声。最新についていこうとしない自分という、容赦のない自己認識。趣味であるというのは定義上の話、たしかに原理上そう呼ぶことも可能であるという理屈だけの話であって、理屈と現実の齟齬について一番敏感なのはこの自分自身である。

 

 以上を踏まえてなお、読書趣味とはいいものである。なぜって、読書という趣味は、一著者、一作品ずつのレベルにまで、細かすぎるほどの細分化が可能だからだ。