多重連鎖列

多感な時期はとうに過ぎ、人生に対する悩みもなんだか、新しく発生することはなくなってきた。いくつかのことはとうに諦め、いくつかは割り切っていくつかは克服し、そして残ったいくつかについてもまた、同じところを堂々巡りする自分に飽き飽きしている。

 

悩みに浸り続けられるほどわたしはもう若くはない。悩み続けられるほどの後悔をする経験もなく、無力感も劣等感も自己嫌悪もない。現実はさして恐ろしくもなく、したがって次なる行動の原動力になりうる、漠然とした危機感もない。

 

きっとそれらはいいことだ。すくなくとも、理屈の上ではそうだ。人生は楽しんだもの勝ち、なら人生を暗いものにする要因は少ないに越したことはない。素晴らしい人生とはきっと、それを苦悩すべき人生であると感じることなく終わる人生のこと。ただのんびりと生き、死んで悔いを残さぬこと。

 

意識的に心に留めておかなければ、悩みがあったという事実すら忘れてしまうだろうから、こうしてたまに振り返ってまだ断ち切れていないふりをしておく、そんな演者としての時間が必要になってくる人生のこと。

 

悩みについて悩むこと。苦悩の再帰的構造。

 

悩みについてわたしが書くなら、わたし自身はどのレイヤーに置かれるべきか。悩みというものについて、わたしは何段階のメタ認知を挟んで理解しているのか。もちろん、ゼロではない。いまのわたしはもう、人生について真剣に悩んでいる張本人ではないからだ。

 

きっとその次でもない。悩みが存在することに悩むことも、あるいはしないことを寂しく思うことも、もうなかなかない。青年期のわたしはたしかに、悩みを忘れることを怖がった。悩まないのであれば人生ではないとさえ思った。だが実際に忘れたいま、もはやそんなことにこだわりはなく、忘れまいという努力もまた、無益なものに感じる。

 

ではその次か。悩みが存在しないということを残念に思わなくなったということを寂しがる。悩みについても、それが存在しないということについてもまた真剣に書けそうにないということを、不便に感じている。こうやってことばにしてみると、なかなか正しいかもしれない。日課に書くことがないとはなんともくだらないけれど、すくなくとも喫緊の課題ではある。

 

むしろそれ以上か。あるいは悩みというものの可算無限個の昇鎖列。もう自分でもなにを言っているのか分からない多重のメタ認知。悩むことについて悩むことについて悩むことについて、もう何度「悩む」と言ったか分からないということについてわたしは悩む。もはやなにを悩んでいるのかいっさい分からないわたしはとりあえず、とにかく悩んでいるのだと書いておくことによって、悩んでいることにしておく。