金銭感覚

 大人になるとだんだん金銭感覚が緩んできて、コンシューマーゲームをぽんと買ったり一度の食事に何千円も使ったりしても、なにも感じなくなる。百五十円のパンを高いと言って買うのを躊躇っていた中高生の頃がまるで嘘のようだ。

 

 けれどもそれは異常なことではない。世の中みんなそうだからわたしだけが狂っているわけではない……という相対主義的な比較論ではなく、むしろ周囲の金銭感覚に合わせるほうが正常なのだという責任論的な自己弁護でもなく、もっと論理的に絶対的な意味で、だ。論理は単純。数千円の食事を一度したところで、それで将来の自分が困ることはない。いま軽率に払った一万円があとあと自分の生活を支えるのに足りなかった最後の一万円となることはありうるかもしれないが、そのたった一万円の差が未来の窮地において、その場で犬のように野垂れ死ぬか末永く幸福に暮らせるかを決定する主要因になる確率は、天文学的に低い。

 

 かくしてそれが一度きりのものであれば、眼前にあるたいていの出費にはまったく、ためらう理由などない。論理的な高校生であったわたしはとうぜん当時からその理屈を理解していたし、同級生の一人はその理屈を理解したうえできちんと論理的に振舞っていたのだが、それでもわたしには、論理を信じ切るだけの精神の強さがなかった。根がケチなうえに物欲がないおかげでさんざん溜まっていたお年玉を集めれば高校生の憧れるたいていのものは買えたはずだが、わたしは買わなかった。論理はケチに負けた。

 

 もちろん一度きりでない場合はその限りではない。岩が一個でもただの岩だが、塵は積もれば山となる。常習的に行う行動への出費が合理的かどうかを知るには、その習慣を作ることが人生においてどれだけの金銭的喪失をもたらすのかをきちんと計算する必要がある。目先の一万円はどうでもいいが、一日一万円出費が増えれば年間では三百六十五万。さすがに無視できる金額ではない。

 

 無視できる金額ではないが、同時に意外と、目のくらむような金額でもない。

 

 月額性の課金がわたしは怖い。それは必然的に、常習的なほうの出費に入るからだ。一度課金を始めればやめる意思がない限りやめられず、それは財布への恒久的な負担となる。そしてそれは、倹約のコツであると同時に、またまったく非合理な態度でもある。

 

 月額五百円かけることの十二か月かけることの……そうだな、五十年。馬鹿でもできるその計算結果を、まだわたしは信じ切れない。そう大した額ではない課金を受け入れられないことと、一度の代出費を許せるようになったことのあいだで、わたしはまだ矛盾している。