小説には人間が不可欠である。それはかならずしも人間の外見をしている必要はないが、それでも人間とみなすことのできるなにかである必要がある。物理的実体を持っている必要はないがなんらかの人間的な精神は必要で、それらは基本的に、人間のことばを用いて説明されうるものでなければならない。

 

 おおくの場合、人間は複数必要である。というのも、たいていの物語を進めるのは人間同士の外的な関係性だからだ。群像劇的な物語は言わずもがな、語りのすべてが一人称的な主人公によって行われる場合でも、他者は主人公とは異なる他者なりの考え方を披露したり他者なりの行動を取ることで、主人公を迷わせたり、計画を破壊したり逆に補強したりと、話中でさまざまな役割を果たす。主人公を翻弄する他者は物語上必要な存在であり、主人公と性格の異なる他者とは物語を動かす原動力であり、物語の展開に波乱と予測不可能な意外性を与える。そしてその影響が大きければ大きいほど、物語は面白くなりがちである。

 

 とはいえ一部の物語では、他者は他者としての仕事をしていない。それらの物語にだっていちおう他者は登場するのだが、その他者は上で述べた意味での他者ではない。というのも一部の他者は、主人公の予想もしなかった行動を取ることで状況をややこしく面白くするといった、主人公の意に反して物語を進展させる外的要因としての仕事を、まったくしないことがあるのだ。

 

 その手の他者を、ここでは「鏡」と呼ぼう。かれらはまるで主人公自身を映し出す鏡面のようなもので、主人公と正反対の意見を持つことで、物語を動かす主人公の思想を際立たせるためだけに存在している。「鏡」は原理上は人間でなくてもよく、SF では実際にしばしばロボットであり、古典的で非合理な倫理観念を捨てようとしない主人公のまえで合理主義を貫き通す。あるいは猟奇的で冷酷な主人公の横にあって子供を殺すことに反対の意を表明し、生真面目な主人公と寝食を共にしながら自堕落な生活を送り、とにかくそのようにして、主人公の性格を相対化し、際立たせる。

 

 もちろんのことながら、かれらは独立では存在できない。作中の主人公はしばしば、主人公にはない考えを持つその相方を高く評価しているものの、わたしたち読者から見ればかれらは、主人公がいてはじめて定義されうる存在である。目の前にだれもいない鏡はなにものも映さないが、そのことを確認するのは原理上不可能だ。主人公のいない相方は外から見れば空虚であり、だがその空虚はけっして単体で語られることはない。