他者を描写する

ひとの気持ちは分からないものだと、わたしは理解して生きてきた。他人の心中をのぞき見るための方法などこの世にはなく、だからひとはけっして、互いに理解し合うことなどできないのだと。そしてだからこそ、自分とは違うキャラクターを操るなんて芸当をやってのける創作者という存在を、ずっと不思議に思っていた。

 

その謎について、語ろうとしたひとは少なかった。真剣に探せば見つけられたのだろうが、すくなくとも、わたしの身の回りにはいなかった。わたしと似た自己評価を持つひとなら一度は考えるはずの謎だけれど、そんなひとはあまりいなかった。

 

それがわたしだけの謎であったことを、当時のわたしはとくべつ不思議だとは思わなかった。不思議だと思えるほど、わたしは傲慢ではなかったのだ。自分とは違うキャラクターをかれらが動かせるのは、他人という存在をかれらがよく知っているからだとわたしは思っていた。そして他者理解という点においては、わたしは世の中でとくべつ劣った存在だと信じ込んでいた。

 

いまとなっては笑い話だが、当時のわたしの世界観は以下のようなものだった。まず、ひとは基本的に他人の内面を読めている。ひとが他人をそのひとらしく描写できるのは単に、そのひとがなにをどう考えているかをすべて知っているからだ。およそ健全な発達を遂げただれもがその能力を持っており、かれらは学校で、職場で、飲み屋の席で、いつも隣人の内面を把握して行動している。

 

同じことは目の前の人間だけでなく、想像上のキャラクターに対しても成り立つ。キャラクターには生まれながらにして内面があり、それが作者自身の内面からいかにかけ離れたものであろうが、作者はそれに共感することができる。そして作者の発揮すべき能力とは、未知の存在に共感する能力ではなく(そんなことはだれにでもできる)、共感によって知ったものを言語化し、物語の形へと落とし込む能力のことである。

 

もちろん、そんなことはない。ひとの気持ちが分からないのはべつに、わたしだけに限った話ではないわけだ。他人も他人が分からない。当たり前も当たり前。けれどそれに気づくのには、ずいぶんと長い時間を要したものである。

 

読者から見れば、作者はそれぞれのキャラクターの内面を驚くべき精巧さで記述している。ひとは他人の内面を精密に理解していると信じていた頃のわたしにとってそれは驚くべきことではなかったけれど(なぜって、わたし以外にとってはそれくらい造作もないことだからだ)、いまとなっては偉大さが分かる。自分自身とまったく異なる人格をいくつも描き、それらのすべてに血を通わせるなんて芸当は、いったい人生を何度生きたら可能になるのだろう? けっして理解できないはずのものを、かれらはどうしてそうも簡単に理解できる?

 

この疑問が解けた気になったのは、それもまた長い時間が経ってからのことである。