他者を説明する

だれしも人生は一度きりなのに、作家はなぜたくさんの人間を描写できるのだろう。かれらが物語に登場させる人物のうち、最高でもひとりとしか同一でありえないはずの作者になぜ、全員の内面を理解して描き分けるなんて芸当が可能なのだろう?

 

わたしにとって、これは長年の疑問だった。作者が実際に複数人の人生を完璧に理解しているわけではないのだと理解したあとでは、なおさら不思議だった。なにかをそれらしく描くのには、その対象への深い理解を要する。他者というものが本質的に理解不能な以上、他者などろくに描けるわけがない。けれど小説の中の登場人物はみな固有の具体的な思考様式と、行動規範を持っている。

 

それを筆者は、説得力を持ったかたちで描き分ける。そればかりか、その人物の内面を完全に理解していなければけっして説明などできないはずの具体的な内面まで描写してしまうのだ。いったいぜんたい、かれらはどんな超能力を使っているのだろう?

 

この謎が解けたのは(すくなくとも、解けたとわたしが思ったのは)、ある現実的な制約に気づいたときだった。人類の限界を知ったとき、と言ってもいいかもしれない。その制約とはまたもや、わたしたちはだれひとりとして、他人というものを真に理解しないという事実だった。

 

わたしたちはけっして自分以外の人間を理解しない。なにかを書くときには、それはもどかしく忌み嫌うべき限界でしかありえなかった。けれど読む側に立ってみれば、それはそのまま抜け穴になる。自分自身以外を理解していない読者はけっして、物語の中の人間の本性を理解できない。登場人物の内面に関して作者が憶測ででたらめを言ったとして、読者には原理上、それをでたらめだと見破ることはできないわけだ。

 

かくして作者は、人間を真に理解せずに人間を描写できる。実際の真実を、真実らしく見えるものと区別できるひとは存在しないゆえに。作者にとって必要なのは、ひとの内面に関して正解を出すことではない。登場人物の言動をよく説明するような、説得力のある論理を立てることだ。

 

それでは。改めて問おう。作者はなぜ、登場人物を描写できるのだろう。自分とはまったく異なるはずの人物の行動に、どうして説得力を持たせられるのだろう。

 

思うにそれは、他人に対する興味のなせる業だ。自分とはまったく異なる行動を取る他人がなぜそういう行動を取りうるのかという問いに、自分なりの解釈を与えようという努力の結晶だ。

 

ある意味ではそれは、もしかすれば、他人を舐めてかかる習慣だと言ってもいいかもしれない。相手の実際の内面に興味を抱くのではなく、相手の言動をよりよく説明しようと試みるのだから。正解ではなく、説得力を求める。その態度はきわめて傲慢だが、同時に建設的でもある。