確信的な予測

 未来予想というものはどれもこれも、そもそもの起こりからして無責任である。未来のことなど分かるわけはないのに、二十年後の世界はこうなっているだとか適当なことをでっちあげて、まるで見てきたかのように強弁するやつが、そう主張する確固たる根拠を持っているのをわたしは見たことがない。

 

 もっともそのように評するのは、すこしずるい態度かもしれない。というのも、根拠などそもそもありっこないからだ。むしろ根拠がなくても許されるのが未来予想の面白いところで、まだ来ていない時代という不確実性の前ではだれもが平等に適当なことを言えるのだ。ノーベル賞受賞者の発言もわたしたち素人の予測も、あるいはすごそうだが聞いたことのない、おそらく自分でつけたであろう肩書をひけらかしている詐欺師まがいの情報商材屋のことばも、どれも等しく、ぜんぜんあてにならない。

 

 さて。しかしながら不思議なことに、世の中にはあてになる未来予測というものがある。正確に言えば、あてになるとされている未来予測だ。通常と違って、その手の未来予測に対しては異論を差し挟むことが許されない。ものすごい経歴と肩書を持った人間の反駁ならあるいは奇説として一定の地位を持てるかもしれないが、わたしたち素人の反対意見は、単に一笑に付されて終わる。

 

 例を挙げよう。現在二十代半ばのわたしにとって世界は、物心ついたころから、どんどんグローバル化する一方だと予測されてきた。国内と海外を隔てる壁は加速度的に透明化し、あらゆる企業やコミュニティは多国籍化し、英語が話せないやつにはしだいに人権がなくなる。だれもがそう主張し、実際にそうなるかどうかはだれも知らないのにも関わらず、そしてそうなるという科学的根拠もまた存在しえないのにもかかわらず、グローバル化は既成事実として扱われてきた。

 

 だからわたしたちの青少年期は、英語を学べと叫ぶひとびととともにあった。かれらは素朴にグローバル化を信じ、それが単なる予測に過ぎないなどということにはまったく思い至らず、あるいは思い至ったとして、極端な現実逃避だとして一笑に付した。中高で学ぶ五教科のうちで英語だけは特別なものとされ、ほかのすべてと並列して考えられはしなかった。英語ができるだけではなにもできないのだという意見はあることにはあったが、それはグローバル化信奉の巨大な波に対する、わずかばかりの抵抗運動に過ぎなかった。

 

 ではなぜこの手の未来予測は、ほかの予測と違ってここまで信奉されているのだろうか。AI に仕事を奪われる未来と英語なしでの仕事がなくなる未来のあいだにある確度の差には、いったいどういう理由があるのだろうか?