机上の空論

わたしたち基礎研究者が語っている「応用」なるものが、査読者という無知な同類を説得するためだけの机上の空論であるということは、その構図にあらわれるだれもが論文の執筆者である以上、関係者のみなが当事者として知っている事実である。理論が応用されると期待される現実がいったいいかなるものであるかについてわたしたちは露ほども知らず、なけなしの想像力で無知を補おうとしたところで限界はすぐに訪れ、月並みで浮世離れした空虚な戯言を紡ぎ出すのみ。

 

しかしながらわたしたちは、けっして実際の現場に触れようとはしない。知という体系を信奉し、世の中には現場経験によってしか学べぬことがあるとよく理解しており、経験から学んだ人間のことをつねに尊敬するという文化を内面化しておきながら、応用を語るにあたっては根拠の浅い、素人の妄想で済ませようとする。その態度は間違いなく無礼で、真面目に応用に取り組んでいるひとたちの目から見れば腹立たしいものに違いないが、とはいえわたしたちのダブルスタンダードは、容易に説明のつく思考様式でもある。基礎を志すわたしたちは応用に興味がなく、そして興味がないことを学ぶのは、たとえ研究者であろうが苦痛である。

 

さて。ことばに出さないまでも、それらのすべてにわたしたちは気づいている。わたしたちの態度には正当性も敬意も欠如しており、わたしたちの空論の具体的にどこがどう間違っているのかは分からないけれどとにかく間違いだらけなはずであり、というかそもそも世の中は基礎研究に扱えるほどきれいに動いてはいない。口に出すと先人への敬意が足りないことになるから断言こそしないけれど、この分野のだれもが応用に関してはすこぶる無根拠で適当なことを言っているとわたしたちは知っており、そしてわたしの方便が妄想であるのだとすれば、ほとんどすべての先行研究もまたそうであると勘づいている。

 

そうだれもが知っているにもかかわらず、わたしたちは同類を納得させるために方便を使う。それが方便であることをみな知っているというのに、それでも使う。書かれた応用がまったく本質を突いてなどいないと知っていながら、査読者は物語の質を評価する。壮大な無駄、だが現実にこの世界はそうして回っている。そういうことになっている。

 

現実を変えるのは難しい。方便と知りながら評価される方便の出来で研究の質が判断されるこの世界に対し、個人ができることは多くない。唯一出来ることはきっと査読が回ってきたとき、方便をまるきり無視するということだけだけれども、それもやはり、反抗と呼ぶには少々味気ない。