悪魔の証明

わたしたちの書く論文のほとんどに、具体的な応用はない。応用に至る計画もなければ、そのビジョンもない。良くも悪くもわたしたちは浮世離れしていて、わたしたちの研究が世の中を豊かにすることもなければ、絶望や戦争へと導くこともまたない。役に立たない研究をわたしたちはやっているし、そういうふうに理解してもいる。

 

けれどもわたしたちは、自分たちを役立たずだとは呼ばない。社会不適合だとか常識がないとか言って自嘲することはあるけれど、研究そのものが無益であると断言することはなかなかない。わたしたちは自分の研究を見、いかなる意味であっても真に役立つ可能性が見出せないと判断するわけだが、それではまだわたしたちをして、自分を役立たずだと主張する根拠にはなりえない。

 

代わりに主張するのはこんなことだ。科学の進歩は予測不能だから、かりにいま役に立たないとしても、数十年数百年後に役に立つ可能性がゼロだとは言い切れない。現実離れしているように見える現実のほうがどのようにも変わりうる以上、どんな科学にも役に立つ可能性がある。きみたちは整数論を知っているだろう? 数学の花と呼ばれた美しい理論は、ちょうど花のように役立たずだと思われていたけれど、現代ではこの社会の基盤インフラである情報通信技術に必要不可欠じゃあないか!

 

そう聞けばわたしたちは一瞬、なるほどたしかに、と納得させられそうになってしまうわけだ。たしかに未来は決まっていない、その時が来るまで分からない。だから役に立つことがあり得ないなんてこと、証明することはできない。

 

不可能なことを証明するのは難しい。

 

わたしたちが自分たちの有用性を語ろうと試みるとき、根拠はきまってそれである。何かの間違いで将来的に役に立ってしまう可能性を否定できないという、悪魔の証明。なるほどたしかに、証明できないことを信じない態度は理論屋の美徳かもしれない。役に立たぬと断言しないことは、真摯さだと呼べるかもしれない。

 

けれど証明できぬという事実に可能性を見出すのは、悪魔の証明こそを自分たちの存在意義の根拠として縋りつくのは、もはや虫がいいを通り越して、陰謀論的だとさえ言えるのではないだろうか。

 

世の中には無数の陣営がある。そしてその中のひとつ、光の陣営が勝利した暁には、わたしの研究の役に立つ日が来る。光の陣営がなんなのかは知らないし、そんな日が来るのかは知らないが、永劫の刻の中では、そういう日もきっとある。なにせ、あるということをわたしたちは否定できないから。

 

そんな粗雑な議論を信奉しないためにきっと、わたしたちには時間制限が必要である。