反対の予想

 未来予想というのは外れてナンボのもので、たとえばいま世の中は近未来の AI の話で持ち切りだけど、そうやってわたしたちが安易に想像するような次世代の世界は結局いつまでたってもぜんぜん来ませんでした、ということだって平気でありうる。というかむしろ現代人の想像力には限界があるわけで、わたしたちが想像したとおりの未来が実際に来ると傲慢に信じ込むことのほうが、ちゃんちゃらおかしな話である。

 

 たいていの人間は妄想と未来を区別できるくらいには謙虚だから、それくらいのことは分かっている(分かってないやつは怪しい情報商材屋のカモである)。そう分かっていてもひとは未来予想をせずにはいられず、人工知能や戦争や人口動態や表現の自由や娯楽の変遷やその他ありとあらゆることについて、ありとあらゆる無責任な発言をする。あまりに無責任すぎて、発言にはもう少し責任を持てとも言いたくなるところだが、なにもそういう妄言を本気で信じるやつなどいないから(繰り返すが、信じるやつは怪しい情報商材屋のカモである)、いくら適当なことを言っても許されるわけである。

 

 さて。このように未来予想とは、つねに当然の疑いとセットである。ホワイトカラー業務の多くが AI で置き換えられると「有識者」は言うが、やつらはそうすべき立場を与えられているからそれっぽく振る舞って自分を賢く見せようとしているだけで(そもそも、識ヲ有スル者が本当にいると仮定すれば、それは未来人にちがいない)、やつらの言っていることは結局、市井の人間が酒を飲んでわめいている内容と比べてなんの価値の違いもない。したがってやつらがいかに立派な肩書を持ち、どれほど素晴らしい実績を上げていようが、やつらの言い分を疑って否定するだけの権利は、わたしたちずぶの素人にだってちゃんと備わっている。そして未来予想が等しく妄想である以上、どれほど現実になりそうな未来予想に対してだって、それは嘘だと言い張って、正反対の予想図を突き付けることが可能なわけである。

 

 とはいっても、そうするのには限界がある。というのも、未来予想を突き付けることとそれが受け入れられることは別の問題だからだ。たとえばいま、例の戦争が二か月後に終結し、今後五百年間一切の戦争が起こらないのだという予想を立てたと仮定しよう。そうなる可能性は厳密に言えばゼロではないし、実際にそうなればそれは素晴らしいことなのだが、物語としてあまりに現実味がないから、だれも受け入れないだろう。