そういう時期なので

 そろそろそういう時期なので、博士論文を書き始めた。博士三年生はだいたいそうするものだというふうに相場が決まっているのだ。

 

 おそらく大学院に通っていたひとはみな聞いたことがあることだろうが、博士論文を「書く」とは、通常の意味での「書く」ではない。論文を「書く」といえば、なにもないところから全部文章をつくりあげるという大変な作業をイメージしがちだけれど、こと博士論文に至っては違って、どちらかというと「編集する」に近い。博士課程に進む決意をして実際にそうしてよいと言われた人間が三年間まっとうに研究をしていれば論文の数本は出ているはずだから、それらの論文のうちいくつかを持ってくればそれで成果は足りる。博士論文の執筆とはそれらの成果をつなぎ合わせるために残りのこまごまとした部分を埋める作業であり、新たな知識を生み出すかどうかという純粋に学術的な意味で言えば、ほぼまったくなにも生み出さない、そんな無意味な作業である。

 

 ではなぜわたしがそんなことをしているのかというともちろん、博士号を取るのに必要だからだ(もっとも、有意義な作業であればやるのかと言われればまったくそんなこともないのだが)。そしてとにかくこの現実社会ではどうやら、博士号を持っているとまるでスーパーマーケットのポイント会員さながら、さまざまな特典を受けられるようになっているらしい。博士という肩書がその持ち主についてなにか地に足の着いた性質を保証するものだとはとても思えないが、そういうふうに誤解されているのなら、システムには乗っかっておいたほうがお得である。

 

 なぜ博士号を取るのにそんな無意味な作業が必要なのかは、わたしにはよく分からない。そう決めたひとがまだ生きているならそのひとに聞いてほしいし、たぶんそうではないだろうから、かわりに歴史家にでも聞いてみてほしい。わたしが知っているのはとにかく世界はそういうふうにできているということだけであり、その点にわざわざ文句を言ってはしゃぎまわるつもりはない。冷静になって考えてみれば、日頃から「申請書の執筆で忙しくて研究の時間が取れない」と文句を言ってすべての責任を文部科学省に押し付けている研究者たちが、博士課程の学生にはこういう申請書と大差ない書類を書かせようとする理由は理解できないわけだが、そんなことを言ったって博士号は降ってこないから、いちいち怒っていては埒が明かない。世の中には冷静になってはいけない状況がたくさんあるのである。