原則の内面化

いい研究とは簡単な研究である、というふうに、あのころわたしは定義した。わたし自身の安心のために、なんでもいいけどなにか、はっきりとした定義が必要だったから。

 

あのときを境に、わたしは嘘をつきはじめた。どんな研究にも意味なんてないとまだまだわたしは思っていた、でももしフォーマルな場で質問されたのなら、違う答えを返す準備があったんだ。これは簡単で、はじめてのひとにも分かりやすいから、いい研究。この論文は高く評価されてるみたいだけど、なにをしたいのかまるで分からないから、きっと悪い研究。そういうふうに、判断を下すことにわたしは決めた。それがなんの意味も持たないと知っていながらね。

 

実際には、そうだれかに言う機会はなかった。とりあえず、いまのところは。いい研究とはなにかっていうピンポイントの質問をわたしにしてくるひととは、この二年ほど会っていない。だからもしかすれば、回答なんて準備していなかったところで変わらなかったのかもしれない。あくまで面接とか、そういうのを乗り切るうえでの戦略としての話だけど。

 

でもまあとにかく、安心はした。これでとりあえず、突然訊ねられても答えられる。自分でも意外だったのだけれど、こういう哲学的な質問に詰まっちゃうというのは、なんだかすごく屈辱的なことだった。自分が取るに足らないと思っているなにかについて真面目に考えたことがないというだけで、何の哲学も持たない空っぽな人間だとみなされてしまう可能性があるというのは、とてももどかしいと思っていた。スタートラインに立つ前に振り落とされる恐怖、というかなんというか。とにかく、なんらかの答えを用意してから、わたしは怯えなくなった。そう、最初はあくまで、保身のための理屈だった。

 

でも。いまではときおり、その建前こそが、わたしの本音なような気がしてくることがある。

 

あのころを境に、わたしは難しい研究を理解したいと思わなくなった。深遠な理論と言われるものが世の中にはたくさんあるけれど、そのどれもがわたしの目には、あまり魅力的には映らなくなってきた。どれもきっと、どうせほとんど誰も理解できない話だ。わざわざ苦労して、そんなくだらないものを追いかける必要がどこにあるんだろう。そんな暇があるなら、簡単なことがいくつもできるのに。そう、思うようになってきた。

 

それははたして、わたしの本心だったんだろうか。それとも、わたしの作り上げた正当化が、無意識のうちに信じ込むということによって、わたし自身を蝕んでいってしまったのだろうか。すべての研究に意味などないと言いながら、意味のある研究がなにかという基準を、知らぬ間に内面化してしまっていたのだろうか。

 

研究に意味などないという原則は、いまとなっては、わたしの本心でありうるのだろうか。