金になること? (前)

アカデミアの世界は、世界中の誰にでも開かれている。そのひとの経歴によらず、どこに住んでいるのかにもよらず、とにかく論文を書けば誰でも、学会誌に投稿して公平な査読を受ける権利を持っているからだ。分野によっては、研究設備が高価すぎてとても個人では買えなかったりもするが、とにかく理論上、どこの誰であっても論文を出版することはできる。

 

だが実際問題、ほとんどの研究者はしかるべき機関に雇われて研究をしている。原因は生計の問題かもしれないし、あるいはやる気の問題かもしれないが、とにかくそうなっている。かくいうわたしもそのひとりで、博士課程学生をしながら、なんとか研究員と名の付くいくつかの身分で給料をもらっている。

 

だからわたしは、日夜研究活動に励んでいる。本当に励んでいると呼べるかはさておき、とにかくそういうことに、すくなくともなってはいる。給料をもらっている分は、働いているということにしなければならない。

 

しかしながら。わたしたちの分野でどれだけ論文を書こうが、それは給料に見合うだけの価値をもたらさない。よりはっきり言えば、わたしたちの書く論文は一銭たりとも生み出さない、ただの趣味の文書でしかない。

 

それもそのはず。だってわたしたちのやることはどれも机上の空論で、実際の技術に応用されることなど、まずありえないのだから。

 

さて。わたしたちのやることが役にも立たないのは確かだが、だからといって、金にならないと結論付けるのはいささか早計かもしれない。それは資本主義社会が、必ずしも役に立つことだけでできているわけではないからだ。世の中の金の流れを考えてみよう。

 

わたしたち一般庶民にとっては、金を使うとはすなわち、なにかを消費するということだ。結構な割合で使い先は食べ物で、もうすこし一般的に言えば、物質だ。たまには物理的実体のないものを買う場合もあるが……まあ、それもまた、消費活動のひとつに他ならない。

 

そういう目線で見れば、わたしたちの仕事は何の金にもならない。世の中で一番金になる仕事とは野菜をつくる農家であり、野菜を運ぶ物流業者であり、それを売る小売業者だ。それ以外の仕事は、わたしたちが金を出すに値しない虚業だ。

 

だがそれ以外の仕事も存在すると、わたしたちは知っている。

 

たとえば、投資家という仕事がある。わたしは詳しく知らないから、テレビの中のステレオタイプでも語ってみることにしよう。

 

わたしの想像の中の投資家はパソコンの前に座し、眼精疲労と戦いながら、謎の長方形の書かれたグラフを睨み続けている。画面にはなにやら大きな数字が書かれていて、刻一刻と変化を続けている。驚くべきことは、その高速に増減する謎の数値が、わたしたちが普段金と呼んで親しんでいるものと同一らしいことだ。投資家はときおり、狙いすましたような顔でボタンを押し――そしてその操作でどうやら、利益なり損失なりが確定しているらしい。

 

素人目には、その仕事はなにも生み出していない。わたしたちの論文と同様に、何の役にも立っていない。だが彼らの、たった一回のクリックで、わたしたちの消費活動とは比べ物にならない額の金が動いている。

 

では、どうしてそんなことが起こるのだろうか。

 

ひとつの答えは、こうだ。具体的な豊かさ以上に、豊かさへの期待が金を動かす。