序論に期待せよ

まず死体を転がせ。小説業界で言われているらしい格言のひとつで、意味は要するに、ツカミは重要だという意味だ。物語の最初になにかひとつ、ドカンと面白いシーンを持ってこい。それで読者の心を掴めるかどうかで、そのあとの展開に対する期待がまるで変わってくるのだ。

 

似たようなことが、研究者の中でもまた言われている。論文でも、まず最初に面白そうだと思わせろ。新人賞を目指す作家が審査員に向けて小説を書くのと同じくらい、研究者は論文を査読者に向けて書いており……そして査読者とはどうやら、最初の数ページを読んだ段階で論文の評価をほとんど決めているものらしい。だから論文を通したければ、とにかくイントロダクションを工夫せよと、そう言われている。

 

その風潮が面白くないのはきっと、作家も研究者も一緒だろう。作家がストーリーの面白さやキャラクターの特異性を読ませたいのとおなじように、研究者は研究の中身を評価してほしい。小説の面白さというものがあくまで最後のクライマックスシーンまで読んだときの面白さであるべきなのとおなじで、研究の面白さというものは、実験や証明をふくめたすべてを理解したあとに感じる面白さであってほしいのだ。概要や序論を読んだときの期待感なんてものは、まったく本質的な理解とは程遠いと、わたしは思う。そんなもので評価が決まるとすれば、査読者はボンクラにちがいない。

 

でも。理想を語るばかりで現実を直視しないのは、研究者の悪い癖だ。理想と現実が異なるということにいちいち文句を言うから、研究者は迷惑だ。理想を捨てて現実に歩み寄ることを潔しとしないのは、研究者の行き過ぎた潔癖だ。作家相手ならともすれば、地に足がついていないとは純粋な誉めことばかもしれない。まあ、少なくない数の研究者もきっと、そう言われれば喜ぶだろうけれど。

 

とりあえず、現実を受け止めはすることにしよう。論文を通したいなら、不本意な想いは胸にしまって、本質とは関係のない文章をひねり出すことに向き合わねばなるまい。ほとんどの研究者の例に漏れず、わたしも論文を査読者に向けて書くから……査読者を、面白そうだと思わせるような文章を、書かなければならない。

 

そして、問題は。わたし自身が、そういう文章のことをさっぱり、面白いと思わないという点だ。

 

イントロのなにがいいのだろう。論文のイントロのどこに、魅力なんてものが宿りうるのだろう。査読者はいったいそのどこを読んで、通してあげたいという気持ちになるのだろう。長ったらしい英文の言い訳、そんなものを読みたがる人間は、いったいどんなマゾヒストなのだろう。

 

これが分かれば、いいイントロは書けるのかもしれない。自分が面白いと思うかどうかは、どう書くかを決めるうえでいい基準になる。そしてそれが分かれば、最低でも、あれを書くという行為を楽しく思えるかもしれない。文章を書くとは、本来楽しいことなのだから。

 

けれど。研究をはじめてはや五年。ひとによっては当たり前なのだろうその境地に、わたしはまだたどり着けていない。