良し悪しの基準

いい研究ってなんだろう、ということについて、わたしは一時期悩んでた。たしか、二年くらい前のこと。ちょうどその直前に、修士論文とか博士課程の入試面接とかの節目のイベントがあって、そのせいでいやが応にも、そういう抽象的なことをわたしは考えなきゃいけなかった。

 

けっして考えたかったわけじゃない。というか考えなくて済むなら、考えずにいたかった。研究ってのはあくまで楽しいもの。いいとか悪いとかを気にしながらやるもんじゃない。しいて言うなら、いい研究ってのは、わたしがやってて楽しい研究のこと。そうやって気楽に構えておくのが、いちばんいいに決まってる。

 

そう思ってたんだけど。あの頃のわたしは、その態度を貫けるほど強くはなかった。

 

研究に貴賤はないっていうのは、論文を通せないやつの綺麗ごと。現実には、研究を評価するためのシステムがたくさんあった。その最たるものが、論文の査読。論文を投稿するとそれは何人かの査読者に割り当てられるのだけれど、査読者は自分の判断で、その論文が掲載に値するかどうかを評価しなきゃいけない。そうなるともう研究に貴賤がないなんて言ってられなくて、研究者それぞれが自分の基準をもって、論文の良しあしを評価しなきゃいけないってことになる。

 

で。ここからが本題。当時のわたしは、研究の良しあしを語るやつらが憎かった。自分の物差しでほかの研究をはかって、わたしの研究にダメ出ししてくるやつが許せなかった。わたしはわたしの研究に意味があるとは思わなかったし、ほかのどの研究にも意味なんてないと思ってた。だから、わたしの研究が無意味だと言いたいなら、まず最初に、すべての研究が無意味であることを認めて欲しかった。

 

だって、そうじゃないと不公平じゃない。わたしはだれの研究をも支持しないのに、ほかのみんなときたら、自分の研究を正当化する基準を持ってる。そしてあろうことか、そのことを恥じすらしない。どうしてそんな浅い考えで、研究を語ろうだなんて思うの? 理論研究がなにも生み出さないことを、どうしてかれらは分からないの? その結論すら導き出せないくらいになにも考えてないくせに、どうしてそんなに威張っていられるの? 研究の意味ってものに対して、いちばん真摯に向き合ってたのはわたしなのに!

 

でも、そう思い続けるのはつらかった。すべてを否定できるだけ否定するっていう結論は、ほかのすべての主張に立ち向かっていくには少々、弱すぎた。自信を持って主張できることなどなにもないのだと主張しても、議論に勝てるわけがなかった。なにより、すべてに意味がないのだとして、そのなかで次にやることを選ばなきゃいけないのは苦しかった。

 

だからわたしは、研究の良しあしというものに対して、自分なりの論理を必要とした。