運だけのやつ

「ロン、大三元」ぼくが何気なく白を切ると、やつはそう言って手牌を倒した。まだ四巡目、まったくの無警戒だったところに降りかかってきた三万二千点の大量失点にぼくはぜんぜん納得が行かなくて、たっぷり十秒ほどのあいだ、対局がぼくの負けで終わったことにすら気づかなかった。促されるがままに財布を出し、数枚の千円札を抜き取って手渡しながら心はそこにはなく、牌を卓に戻す様子がなんだかスローモーションのように見えた。それを見ながらぼくは失った金額をぼんやりと計算し、その金で食べられたはずだった夕食のメニューのことを漠然と考えていた。

 

 それ以上打つ気がしなくて、ろくに挨拶もせずにぼくは雀荘を出た。もう二十一時にもなるのに真夏の夜はまだ蒸し暑く、額に不愉快な汗がにじんだ。無警戒なぼくに襲い掛かった、回避不能の致命傷。あんなものを警戒していてはゲームにならないから、反省しようにもぼくは悪くない。どこへぶつけていいか分からない怒りが頭をめぐり、責任を押し付ける先をもとめて迷子になる。

 

 心は理不尽を受け止め切れていないのに、言語野だけは健在なようだ。自責と他責のあいだで揺れながら、脳はとつぜん、何の前触れもなく、下手くそなギャグを思いつく――「外は暑いのに、財布は寒いんだな」。ギャグを楽しむ気分ではないのにそんなくだらないものを出力する思考を罰しようと、ぼくはこぶしを握って自分の頭を小突く。そしてそのさまのなんとも滑稽なことに思い至り、ますます自分が嫌になる。

 

 やつはぜんぜん、上手くもなんともなかった。

 

 すくなくとも、ぼくのほうが何倍も上手い。手つきとか発声のタイミングとか、そういうところで実力が知れる。やつは素人に毛が生えたくらいで、このぼくには及ぶまでもない。百戦を戦えば、ぼくの圧勝のはずだ。けれど負けたのはぼくであり、それも原因はやつがたまたま上手く手を進めたとか弱者の戦略に徹したせいで裏をかかれたとかではなく、単に何万局に一回レベルの強運をやつが引き当てただけ。実力もなにもありゃしない、今日取られたのと同じだけやつからぶんどってやる権利がぼくにはある。

 

 やつはきっと、今日の出来事を誇るだろう。四巡目に大三元をあがったと胸を張り、それをさもやつの実力であるかのように言いふらすだろう。それが豪運以外のなにものでもないということは、このゲームのルールを知っている人間なら全員分かることなのに、やつはそれがなにか自分の価値を高めるようなことだと勘違いして鼻息を荒くする。そしてぼくは敗者であり、やつの言動に文句を差し挟む権利は一ミリもない。

 

 そのことが無性に腹が立ち、まわりにだれもいないことを確認すると、ぼくは自分の頬を思いきりひっぱたく。