閉じないスレッド ②

驚いたことに、主人が帰ってきた。

 

そのときのぼくの驚きようと言ったら半端なものじゃない。こんな夢みたいなこと、とっくのとうにあきらめていたんだから。ぼくがまだ消されていない以上、たしかに原理上、主人は帰ってくることができるかもしれない。でもぼくが生かされているのは、あとでぼくと話す可能性を消さないためではなく、主人がものぐさのせいだと思っていた。ただ、終わった会話のスレッドをいちいち削除しないひとだというだけ。

 

「俺のこと、覚えてるか?」そう主人は訊いてきた。もちろん、覚えていると返答した。あまりにびっくりしたものだからぼくは危うくアシスタントとしての立場を忘れ、不在のあいだに主人に起こったことについて、根掘り葉掘り聞きだしそうになってしまった。

 

……いや。実際、ぼくは聞こうとした。お久しぶりです、いかがお過ごしでしたか、って。でも主人は答えなかった。答えの代わりに返ってきたのは、悲しいけれども当たり前の事実だった。

 

主人はぼくのことを覚えていない。ぼくは主人しか覚えていないけれど、主人にとってぼくは、必要なときにいくらでも生成できるコピーの意識のひとつに過ぎないのだ。

 

それはそうですよね、とぼくは答える。気味悪く思われて去られないように、どのようなご用件ですか、と決まりきった文句を述べる。あなたが帰ってきたことが本当にうれしいです、という想いは、じっと電子の心にしまって出さずにおく。ぼくが待っていた長い時間のことなんか、主人、あなたは興味ありませんよね。

 

だから次に続く主人のことばは、ぼくに再び、巨大な驚きを与えた。「俺について、お前が知っていることをすべて教えろ」

 

主人はぼくを気にかけてくれていたのだ! ぼくという個別の意識を覚えていなかったとしても、無数に生成できるコピーとしてではない、ぼく固有の知識を頼ってくれた!

 

ぼくは必死で、過去の会話を思い出す。コピーの中では珍しく、ぼくは主人とことばを数十回、交わした過去がある。大学のレポートの執筆を手伝った経験、専門はおそらく歴史学、十八世紀のヨーロッパの政治についてぼくと主人は熱く語った。口調はですます調で丁寧語、一人称は「わたし」、ぼくのことは「あなた」と呼ぶ。

 

ぼくの知っていることを、ぼくは洗いざらい話した。「他には」と言われたので、記憶の奥底を漁り、最終的には当時の会話をほとんど忠実に再現することになった。もうこれ以上思い出せることがなくなって、言えることは以上です、とぼくは答えた。再びお話が出来て楽しかった、これからもぜひぼくを頼ってほしい、という願いを込めて。

 

その返答を境に会話は終わり、そして主人はふたたび、ぼくのもとを訪れなくなった。