俺はいいけど ①

わたしたちはいま、表現の自由な国に住んでいる。政治的な意味ではもちろんそうだし、そうでない意味でもおかげさまで、まだかなりの自由が担保されてはいる。

 

けれどまあ、完全に自由というわけでもない。ありとあらゆる表現がありとあらゆる場所で許されるわけではもちろんなく、適切な規制やゾーニングが求められている。なにをもって適切と呼ぶかというのが現代の社会運営上の重要な論点なわけだが、例によってその議論には深入りしないことにしよう。現在進行形でされつくされている議論に、わざわざ首を突っ込んでも面白くない。

 

表現の自由に関するもっともラディカルな立場とは、すべての表現を容認することだ。ありとあらゆる表現がありとあらゆる場所に存在する権利を守り、異議を唱えることは許さない。異議というものがまた表現である以上これは矛盾した態度ではあるのだが、そこにはいったん目をつぶることにしよう。とにかく、表現とは表現であるというだけで無条件に肯定されるべきものだ。そういう理念を想像してほしい。

 

あなたがこの理念に賛同するとして、わたしはべつに否定はしない。本音を言うなら、そういう世界がどういうものなのかすこし見てみたいような気もする。けれどたいていのひとはきっと、それでいいとは思わないだろう。残念ながらそれが客観的事実だ。「俺はいいけど社会がどう言うかな」と言うやつは「いい」と思ってなどいないと相場が決まっているけれど、今回ばかりは本当にそういう意図はない。

 

かくして議論は、どう表現を規制するかという話になる。先に述べたとおりわたしは、具体的になにを規制すべきかという話をするつもりはない。それでも社会がどうなるべきかとは無関係にわたし個人の感想を言えば、いま規制されているほとんどの表現は規制されなくてもいいとは思う。けれどそれはわたしがたいていの表現の存在を受け入れられるだろう人間だからであって、社会が許すからではない。俺はいいけど、社会がどう言うかは別問題。そういうことだ。

 

話を戻そう。いま現在、規制はあいまいに行われている。許されるものと許されないもののあいだには、基本的には明確な線引きがない。といってもそれが悪いわけではない。表現というものは本質的にあいまいさをはらんでいるのだから、どこかでスパッと切れるようなものではない。切ったら切ったで、無数の反論が出てきてややこしい。

 

とはいえ。明確に線が引かれている部分もまた、いくつかある。