初期熱量

なにか新しいことをはじめて数日間は、とにかくそれにのめり込んで、そのほかのことはなにも手につかなくなる。仕事中はもちろんのこと、ご飯を食べていても風呂に入っていてもいつだってそのことで頭がいっぱいで、とにかく時間を見つけては新しい趣味に使おうと躍起になる。

 

その趣味を夜遅くまで味わい続けてそれでもまだまだ消化不良だけれど、さすがにもう寝たほうがいいという理性の声を無視できなくなったときにようやく、わたしたちは解放される……わけでもない。一刻も早く眠りにつくべき布団の中、それでもひとは考え続けて、途方もない寝不足に陥る。ちゃんちゃん。

 

しばらく経つと欲求も落ち着いて、生活に支障を来たさない範囲で楽しめるようになってくる。最初のようなペースは長続きしないから、それでいいのだ。とにかくひとは熱意との付き合い方を知る、そして何事も慣れるのだということを再確認する。そしてもしそのとき熱意が完全に冷めてしまっていたなら、ひとは単に、続けない。

 

趣味はすべて、そうやって趣味になる。最初は燃えるような熱意から始まり、だんだんに冷めて行く。冷めきった先がまだほんのりと温かければ、それは趣味だ。温かくなければ、一時の気の迷いとして忘れてしまおう。

 

さて。そうした経緯をわたしは何度も経験している。すくなくとも、いま書いているような一般化ができるくらいには。最初の熱意もその冷め方もよく知っている。そして最初の頃に情熱を持っていたということが、その後もそれを続けるかどうかとはいっさい関わりのないことを知っている。新しい趣味の候補が自分にまったく向いていないということに気づくのには、それなりの時間が必要だということも知っている。

 

それでも。ものごとを始めるときの熱意は、高揚は、なかなか抑えられそうにない。それがいずれ冷めると、身をもって知っているはずなのに。

 

情熱は論理では測れない。いま情熱を持つというそのことがいかに非合理だろうが、かまわず持ってしまうものなのだ。寝る間も惜しんで新しい趣味候補に没頭する、なぜなら時間は限りあるから。毎日少しづつ進めれば、今日夜更かしするよりもはるかに多くの時間をそれに費やせるのだということは……知ってはいても、考慮には値しない。

 

というわけで、非合理を知りつつわたしは遊ぶ。あとからいくらでもできることを、あえて無理にいまやる。計画性など知ったことか、趣味でまで計画など立てたくはない! やりたいときにやりたいことをやるのが非効率だなんて、言われても聞く気はない。

 

まあ、案外それでもいいのかもしれない。やりたいことは、やりたいときにやればいいのかもしれない。だってどうせ、ほかのことは手につかないのだから。