作業の快適さ

 忙しい時期はあと二週間ほどで終わる。学会やらなにやらのイベントをこなし、論文の締切を乗り越えたなら、わたしは晴れて自由の身である。

 

 自由の身と言ったが、べつにいまが特別不自由であるというわけでもない。たしかにやらなければならぬことはそれなりにあるが、たとえばこの状況を一刻も早く抜け出したいとか、そういうことは思わない。イベントと論文の締切には終わりが決まっているという共通点があり、そして決まっている以上はその予定をまともにこなすこと以外、追加で願うべきことは存在しない。

 

 この締切前の状況に、どうやらわたしは心地の良い緊張感を覚えているみたいだ。けっして自分の限界を超えてはいないけれど、一方でまったく余裕なわけでもなく、今日どれだけ作業を進めたかが全体の進展具合に大きな影響を与える状況は、なんだか新鮮である。こんな気分になるのは初めてだから、なぜそうなるのか分析してみたい。

 

 まず分かること。目の前にはとりあえず、やるべきことは尽きない。そのどれもが細かいタスクであり、数十分から数時間手を動かせばきれいに終わる。締切はすぐであり、タスクには期間相応の量しかないから、目の前に横たわるものの莫大さに途方に暮れることも、数か月後の未来のことを考えて憂鬱になることもない。必要なのはただ現在必要なものを即座に作ることだけであり、等身大のタスク以外に、見据えておくべき大きなものなどなにひとつとして存在しない。

 

 それでいて、やるべきことは多すぎはしない。締切前でありながら、各々のタスクには「アブストラクトの修正」「スライドの確認」といった、それなりに明確な名前を付けることができる。そして、作業すればすぐに終わる。なぜって、終わらせたことにしなければ間に合わないからだ。そしてなにより、名前の付いたものを終わらせるとはおそらく作業中に得られる最大の精神的な報酬であり、つまりわたしが手にしているのは、最大の報酬がひっきりなしに得られる快感である、ということになる。

 

 世のうまく回っているプロジェクトではおそらく、つねにこのような状態が継続されているのだろう。細かな快感と微視的な報酬、そして継続的な負荷による、巨大さの無視。いまが心地よいからと言ってこの状態が一生続いてほしいとはけっして思わないけれど、すくなくとも健康に、健全に、計画的にタスクが連なっているかぎりにおいて、忙しい労働者たちはきっと、それなりの快適さを感じ続けている。