数学を使って数学をする ③

数学を使うことと、数学をすること。これらを言語化して組合わせてみても、当時のわたしの感情は蘇ってこない。ということはきっとあのころのわたしは、きっとまだ数学というものを、そして自分自身を、よく理解できていなかったのだろう。

 

わたしがしたかったのはたしかに、「数学をする」ではなかった。本を読んで理論を勉強したり先人の思考様式に触れたり、あるいはその先に新しいなにかを付け足したりといった活動を偉大だと思いこそすれ、自分の本業をそれにしたいとはあまり思えなかった。それはそうだ。そうでなければわざわざ数学との付き合いかたを考えたり、進路に悩んだりはしない。

 

その点、「使う」数学は良かった。正確に言えば、「使う」数学だと当時のわたしが思っていたもののことだが。あのころのわたしは応用分野の数学を、せいぜい大学一年生レベルの微積分や線形代数くらいのものだと思っていた。ああいう数学を使うのに必要な知識はそれだけで、そこから先ではじまる個別の議論は、どれも本質的にはたいして難しくないはずだと考えていた。そしてそういう簡単な数学を使いこなすといういとなみは、それなりに楽しそうな気がした。

 

だが「数学を使い」たかったのかと言われれば、それもまた違う。数学の知識や考えかたを使ってなにかをしたかったのは事実だが、そのなにかとは結局、数学でしかありえなかった。物理学や工学や金融や、その他あらゆる応用上の目的のために数式をいじくるというのにはいまいち興味が湧かなかったし、なにをモチベーションにしていいのかあんまりよく分からなかった。ほかのなにかに数学を使うということに興味を抱くには少々、その具体的ななにかへの興味が足りなかったのだ。

 

かくして。数学を使って数学をする、とは、ある意味消去法で生まれた概念であった。数学の深遠さに触れたいわけではない、できればもっと身近で初等的な、手に届く範囲の数学を使っていたい。だがどこで使うのかといえば、数学という場以外にはなかなか思いつかない。ならば初等的な数学で完結する、そういう数学分野に行くべきだ。そんなものがほんとうにあるのかということについて、当時のわたしがまともに考えていたとは思えないが。

 

そして幸いなことに、いまのところ、当時のわたしの目論見は成功しているように思える。

 

わたしは数学を使っている。使っている数学はどれも直感的なもので、きっと高校生のころのわたしだって、説明されれば理解できたし思いつきもしただろうものだ。応用先は数学であり、実験も実応用もなく、ただ証明を書いて会議に投稿するのがわたしの研究活動だ。

 

当時のわたしは言語化が苦手だった。自分の欲求を、自分にだけ通じる主観的な言語化をして満足していた。だが進路を選ぶのがわたしである以上言語化とはそれでじゅうぶんで、そしていまから振り返れば、ああやって表現したことはよいことだった。