理不尽

自分の意志とは関係なく、とらされる授業の数々。興味もなく、将来的になんの役にも立たないことの分かり切っているものごとを、できるようになれと言われる日々。不健康なほどの朝の早さ、机に倒れ伏す時間のためだけに乗らされる満員電車。興味のない行事のために強制される練習。高校生の生活とは、かように理不尽に満ちている。

 

どんな教育環境だろうがそれはかわらない。わたしの通っていたところはその点、かなり優れていたように思う。わたしたちには制服も校則もなく、それゆえ一般的な高校生が感じているほとんどの束縛からおそらく自由ではあった。けれど大人になったいま考え直せば、あくまでそれは相対的な自由。真なる解放ではない。教育という箱庭のなかのわたしたちはけっして、できうるすべての行動を許されてなどいなかった。

 

もちろんここで文句を言うつもりはない。むしろするべきは感謝のほうだろう、わたしたちに相対的な自由を与えてくれていたことに。教育というものはすべからく、制約の多いものなのだ。放っておいてはなにも学ばない人間に、一定の知識と常識を強制的に叩き込まねばならぬのだ。「生徒の主体性を重視した教育を」などときれいごとを叫ぶやつらもいるが、そんなものに任せては埒が明かない。生徒が自分の好きなことしかしないのなら、どんなにうまくいったとしても、非常識で尖ったオタクが量産されるだけに過ぎない。実際にはきっと、オタクにすらならない。

 

さて。とはいえ理不尽はやはり理不尽だ。考えてみて欲しい。高校で三角関数を教えねばならぬ理由はわかるとしても、学ばねばならぬ理由などあるだろうか? 太古の昔から高校生たちに持たれ続け、教育者のだれひとりとしてまともな返答をできたことのないこの質問に、答えるすべがひとつだけある。答え、学ばねばならぬ理由などない。だれも説明ができないということは、そういうことだ。

 

青春をとうに通り越したわたしたちは、理不尽を受け入れるすべを身につけてきた。理不尽を理不尽と理解しながら、そのままにしておいても平気になったわけだ。そしてあろうことか、これまでに受けた理不尽を勲章として誇るようになった。世の中は理不尽だらけだとうそぶいて、怒りを矮小化するようになった。そしていずれは、矮小化してしまうという習性それじたいを自慢するようになる。それこそが、大人であるということの証拠だと言って。

 

だからこそ青春の理不尽は馬鹿にされる。大学受験を控えた高校生の苦悩は、将来のためだとか適当なことを言ってごまかされる。どう将来のためになるのかなど大人のだれも理解してはいないのだが、高校生は将来を知らないから、騙されてしまう。

 

そしてそのからくりに気づいたころにはもう、理不尽を受け入れる身体になっている。