棹を差す

画像生成系 AI の使用に反対するひとの中でもっともラディカルな一団を見ていると、そこに感じ取れるのは正義感でも遵法意識でもなく、もちろん論理性でもなく、それどころかみずからの職とアイデンティティが砂のようにこぼれ落ちてゆくのを目の当たりにしたときの、ほとんど絶望と言ってもいい苦し紛れの叫びですらなく、かれらの中にはそれらすべての理由のかわりに、単なる集団ヒステリーだけが居座っている。

 

その点だけを切り取ってみれば、かれらの実態はもはや特別なものではなく、ほかのすべての社会運動のなかにかならず一定数存在する、きわめて短絡的で頑固な集団にほかならない。かれらは他人の話に耳を貸さず、というかおそらくは話を聞くということがどういうことなのかをよく知らず、世のすべての発言から特定の単語だけを切り取って、あらかじめ用意していた反応で騒ぎ立てる。現代のインターネットではすっかりおなじみとなったその光景は、画像生成 AI の勃興といった新しい社会問題の足元にだって、やはり例外なく広がっている。

 

しかしながらああいう「活動」を、ほかのすべてと同一視するのは難しいだろう。たしかにかれらは他人の話を聞かず、ヒステリックに叫び、論理的に考えて呑むことのできない要求をしてくるかもしれない。またかれらは真に困っているひとではなくその取り巻きで、あれを義憤だと勘違いして社会に八つ当たりしているだけかもしれない。けれどもかれらには、ほかのほとんどの活動家が持っている、未来への可能性のようなものが欠けているように見える。

 

ラディカルな社会運動を見て、恐ろしいと感じるのはなぜか。思うにそれは、まかり間違ってかれらが未来の主流になってしまうという絶望的な可能性が、どうにも否定できないからな気がする。いまはヒステリーと言って馬鹿にしていられる、極端で非論理的な発想が、いつか大真面目に検討される日が来るかもしれない。そんな日が来るのはまっぴらごめんだし、そんな未来が訪れるのならこの身を捧げてでも阻止するが、とはいえわたしひとりで阻止できるほど、ディストピアというものは脆くないのだ。

 

そしてかれらには、画像生成 AI への反対運動には、そういう恐ろしさが根本から欠けているように、わたしには見える。

 

時代の流れには逆らえない。歴史の正しい流れというものを定義したくはないが、すくなくともかれらはそれに逆らおうとしているように見える。かれらは社会を変えようとしているのではなく、否応なく変わっていくだろう社会を、もとのままに保とうとしている。

 

そしてかれらが覇権を握った社会を、わたしはまったく怖いとは思わない。なぜならそれは現在の、この社会にほかならないのだから。