存在性の存在性

複素数なんて存在しないものを、なんで考えなきゃいけないのかわかんない」――数学の嫌いな高校生が、決まって口にするとされていることばにこんなものがある。「三角関数なんて何の役に立つの」と並んで、ずいぶんと昔から変わらず二大勢力のトップを守っている疑問の片方である。

 

とはいえ「三角関数なんて」とは対照的に、この疑問には模範解答がある。「存在しなくてもいいんだ、考えると便利な状況があるから」。それに対して有効な反論は存在しない――疑問の主が数学を嫌っているこの状況では、より一層。「世の中には難しいこともあるんだなぁ」と言って、きっとかれらは渋々納得してくれる(そしてますます、数学への興味を失う)。

 

理屈はおそらくこんな感じだろう。高校生が三角関数を学ばねばならないことがかれら自身にかかわる問題なのとは違って、数学者が複素数に熱を上げるのは数学者の勝手だ。数学とかいう何が面白いか分からないものを生業にする理解不能なひとびとがなにをしていようが、かれらにとっては問題ではない。代数学の基本定理複素解析学もかれらの人生には縁がないし、興味を持つ理由もない。「なんで考えるのか」は疑問ではなく愚痴なのだから、答えを求めているわけですらない。

 

さて。しかしながらそこにはひとつ、哲学的な示唆があるように思われる。自分自身でも気づかないうちに、かれらは数の存在性を定義しているのだ。複素数が存在しないとわざわざ主張するということは、裏を返せばかれらにとって、実数は存在するということだ。存在と非存在との間の線はしっかりと、開平操作の道中に横たわっている。

 

ではなにがかれらをして、そう信じさせるに及ぶのだろうか。

 

原理的には、すべての数は存在しない。「一個のりんご」の存在から「一」だけを切り出して、存在性を見出すことはできない。こういう話をすると必ず顔を出す議論だが、これはまったく、目の前で起きている現象を説明してくれはしない。すべてを存在しないことにしてものごとを過剰に単純化するのは、似非哲学の悪い癖だ。なにせ実数は存在すると、かれらは素朴に信じているのだ。

 

これを読んでいるだれもがきっと、答えには思い当たっていることだろう。あるいは同じことを考え、答えの陳腐さに落胆したことがあるかもしれない。存在の正体はもちろん、数直線。どういうわけかあの直線は、整数の引き算や整数環の局所化や有理数の完備化という複雑な概念のすべてを、なにやら直感的なものにしてくれるようである。そしてその複素平面への拡張には、目で見て分かるのにもかかわらず、なにやら非直感的なものがあるようだ。

 

このわたしも、かれらに共感しない部分がないわけではない。大学でしばらく学んでからは有理数と実数の間に線を引きたい気持ちにもなってきたけれど、それでもあの素朴な感情を完全に失ったわけではない。数直線にあって複素平面にはないなにかが確実に存在し、けれどその正体はまだ、わたしにはよく分からない。