独立と従属

 他人がどのような人間であるのかに、ひとは思いのほか興味がない。だからわたしが SNS でだいたいどのようなことを言ったところで、評価にさらされるのはあくまで発言内容そのものの面白さであり、だれもその裏に潜んでいるわたしの思想だとかひととなりだとかを重視して、わたしへの評価を変えたりはしない。

 

 だからこそまあ、SNS は気楽である。わたし個人という存在にはだれも興味ないのだから、発言にあたってわたしは特に、わたしらしくあろうと考える必要はない。SNS という場で大切なのはどこまで行っても発言そのものであり、それがかなりの部分で否応なくわたしという文脈から切り離される以上、わたしの信念や一貫性の一部はある程度、面白さの犠牲にすることができる。

 

 さて。とはいえそれでも、わたしはわたしから完全に自由になれるわけではない。まず第一に、わたしには恥がある。信念や一貫性に関するある種の事柄はわたしにとって SNS でウケることよりも重要なことであり、きわめて具体的に言えばわたしは、恋人がいないことをクリスマスに嘆いたりはできない。もっともそれは使い古された、面白くないネタではあるけれど、たとえ周囲の全員がそれを面白がると知っていたとしても、わたしはそういうことをしない。

 

 そして第二に、わたしが何者であるかという情報は時折、発言の面白さに対して多少の味付けをするどころか、むしろ本質的な構成要素となることがある。

 

 身近な例として、ソーシャルゲームを考えよう。わたしたちは資本主義原理に敗北して、もはや闇市場かなにかだとしか思えない相場のガチャを回す。ときにひとは一発で目当てのキャラクターを手に入れ、ときに延々と外し続けて阿鼻叫喚と化し、たいていのケースでは大数の法則にしたがって中途半端な試行回数ののちに当たる。結果がどうあれわたしたちはそれを SNS にアップロードし、だれにも興味を持たれず流れ去る。他人のガチャ報告はつまらないからだ。

 

 けれどそのガチャを回したのが声優であり、作中で声を当てているのがほかならぬそのキャラクターだったならば話はべつだ。結果がどうあれそこには「自分自身を引き当てる」という物語が付与され、ただの擬似乱数に過ぎないはずのその報告はとたんに興味深いストーリーとなる。自分自身を一発で引き当てたのならそれは必然の運命だし、回し続けて天井に達したならさまざまな理由をこじつけられる――「彼女は恥ずかしがって出てきてくれないのだ」――し、中途半端に終わったなら、運営はほんとうに確立を操作していないのだなぁ、という身も蓋もない結論が導き出される。そしてその場合もわたしたちが興味を持つのは、その声優のひととなりではなく(当たり前だ、ガチャで性格は測れない)、自分が当てた声を聴くために財布を痛めるという、その特異な構造のほうにある。