衰退の側に立つ ②

長期的な視野を持った研究ができない社会は、わたしにとってそう悪いものではない。短いサイクルで研究を回しながら玉石混交の論文を書くほうがわたしの性に合っているから、任期が短かったところでべつに、研究が宙ぶらりんで終わってしまうこともない。何度も就職活動をしなければならないのは億劫ではあるけれど、言ってしまえばまあそれだけだ。社会のせいでやりたいテーマを諦めなければならないとか、そういうことにはならない。

 

だから相対的に、そういう風潮は追い風でもあった。社会が求めているものが短期的な成果なのだとすれば、それはわたしにとってむしろ有利なことだと思った。どの会議に通ったかだけによって論文が評価され、論文のアクセプトがつねに最終的・究極的な目標に据えられるのであれば、素晴らしい世界だと思った。そしてアカデミアの現状を憂慮するひとびとのことばのひとつひとつが、そういうユートピアの広がりを裏付けているように、数年前のわたしには見えていた。

 

しかしながら中に入ってみると、残念ながらまだこの世はそうなっていなかった。研究とはいまだに、論文を通す競技とは程遠かった。

 

論文を通すことは、依然としてスタートラインだ。研究者はいまでも過去に書いた論文の知見を活かして次へと進み、より深く深く理論の深淵へと潜ってゆく。そうすることが社会的に推奨され、そしてほとんどのひとはどうやら、それこそが研究の醍醐味だと信じている。かれらが研究を評価する基準は、その研究の先にさらになんらかの方向性を見出せるかどうかだ。どこに通ったかという、わたしの愛する単純明快な法則は結局、参考指標のひとつにすぎない。

 

だからこそかれらは、まったく無邪気にこういうことを言う。きみもきっと、じっくりとひとつのことを考えたいのだろう。どこまでも深く潜り、尽きることのない疑問を解決しつづけたいのだろう。そして終わりなき旅の最後には、きみにしか立てることのできなかった理論を打ち立てたいのだろう。そう思わない研究者がいるなどとは、彼らはきっと想像すらしてみない。目先の問題を解いて喜ぶことを繰り返しているわたしのようなひとは、かれらに言わせれば、現代社会がおおらかさを失ったことの被害者なのである。

 

わたしに被害者性はいらない。わたしが単発的な研究を好むのはあくまで、わたしがそういう人間だからだ。かれらがディストピアだと思う方向に世界が進むことをわたしは望んでいるし、それはべつに、だれかに望まされているわけではない。

 

わたしの存在をかれらは知らない。だからこそ、わたしは書いている。わたしの存在を知らしめるために。アクセプトが目的で研究が手段である社会を、むしろ望んでいるやつがここにいる。