フィードバック

恐れていたことが起ころうとしている。自分こそが絶対に正しく、世の中のほかのすべては完全に間違っているという独りよがりな思念が、ゆっくりとわたしを侵食してきているのだ。証拠に、ここ数日の日記を見て欲しい。ある種の人間を馬鹿にするのは間違っているだとか、抽象的な概念を分かりやすいと呼ぶのはおかしいだとか、そういう一方的な決めつけで埋め尽くされている。

 

この問題に真剣に取り組まねばならぬ日が来ることは、ずいぶん前から分かっていた。書き続けるということは、それなりのリスクのある行動なのだ。ひとは考えたことを書くだけではなく、書いたことを考える。書けば書くほど文章は思想を強化し、強化された思想がまた文章になる。文章が文章を強化し思想が思想を強化するこの正のフィードバック機能は、遅かれ早かれ、発散して暴走することになる。

 

ブレーキをかけられるのはわたししかいない。思想が臨界点を超え、わたしがなにかに「目覚めて」しまう前に(偉大な学者が歳を取り、確固たる信念をもっておかしなことを言い始める現象をわたしは知っている)、わたし自身を止めねばならない。どれくらいの猶予があるのかは分からないけれど、早いに越したことはない。そのためには、わたしがわたし自身のコントロール下にあるかどうかを、たえず確認しておかなければならない。だからして……

 

……ああ、また仰々しいことを書いてしまった。悪い癖だ。わたしがしたいのは、そんなサイバネティックな話ではないのだ。無駄に格好をつけて我が身を嘆こうとしても、ただうすら寒いだけ。みずからの身を案ずるなら、地に足をつけなければならない。

 

話を戻そう。要するに、必要なのはこういうことだ。危うい思想に染まりそうになったら、反省する必要がある。今回であれば、こういうふうに。

 

自分と異なる意見には敬意を払わねばならない。かりにそれが、自分と正反対のものだったとしても。世の中にはいろいろな考え方があり、そのどれかが絶対に正しいわけではない。

 

いや。正反対ならばおそらく、尊敬はできるだろう。同じ問題に興味を持っているという点で、わたしと相手は一緒だからだ。難しいのは、わたしが重要だと思っている問題に相手がまったく無頓着な場合だ。相手の意見なんてものは存在せず、ただ無関心がある。そういう状況でリスペクトを欠かさぬというのは、なかなか難しいことだ。そもそも、リスペクトする必要があるのか。わたしが扱いたい問題に対して、相手はまるで素人だと言うのに。

 

必要なのはおそらく諦観だ。ある種の問題に絶対に興味を持たないひとはいる。それはまごうことなき事実であり、だから認めなければならない。自然現象に腹を立てても仕方がないように、かれらに文句を言う必要はない。そして文句さえ言わなければ、わたしにとってはそれでいい。

 

言う文句がなければ、わたしは書かない。そして書かないのであれば、わたしはまだわたしでいられる。