無責任な予測

 未来世界を語りたい場面は数あるが、それらはすべて不可能な試みである。未来とは読んで字のごとく未だ来ていないもののことであり、それが来ていない以上、正確に語ることなど原理上できない。

 

 とはいえ語らないわけにもいかないので、わたしたちはそこに予測を混ぜる。そのために健全に発達した社会を想像したり、あるいはこうなったらいいなという希望を込める。性格の悪いやつらは現在の世界ののかすかな綻びを針小棒大に解釈して、それがクリティカルな問題となっている様子を描き出そうとする。どれも無責任な妄想、体のいい欺瞞でしかないわけだが、それ以外の選択が取れないという身もふたもない事実は、無責任や欺瞞のすべてを無条件に許してくれる。

 

 なにを言っても許されるとはいえ、なんでも言えるというわけでもない。未来予想図にはどれほど無根拠な世界を描いても構わないが、それでもそれは未来らしくあらねばならない。人間がみな脳にチップを埋め込んで視線だけで通信する世界や、暴君が毎日のように人工地震を起こし続けるディストピアを描き出すことは、たとえ技術的な裏付けが皆無であろうが許される。けれどたとえば戦国時代風の刀を差した侍が城へと攻め入っている様子を未来と呼称するのは、未来らしくないから無理がある。

 

 どうすれば未来らしいのか。とくに近未来において、答えのひとつは現代と地続きの世界を描くことである。想像のなかの未来には現代にはない技術や社会制度があるが、その萌芽は現代にもすでに見受けられ、つまり現代をかたちづくる要素が自然に発展したものが未来である。生体端末とは VR ゴーグルの発展形。工場の工作機械が健全に発達すれば、いずれ人間と区別のつかないアンドロイドになる。

 

 というわけで現代のあらゆる要素、そのなかでもとくに科学技術はいつも、未来を描きたい人間の標的にされる。技術を作る側には責任があるが口を出すほうには責任などないから、ひとは技術的限界についてはろくに調べもせず、好き勝手な妄想を語りだす。現代を針小棒大に拡大するその作業は、未来らしきものを語れるようになってみたい人間の端くれとして身に着けておくべきスキルではある。けれども同時に、科学技術の近くにいる人間として、あまり無責任なことも言いたくはない、という葛藤がある。

 

 量子コンピュータ。その箱は研究者たちの誇大広告と役人の曲解により、計算のパラダイムを劇的に変える技術だと信じ込まれている。作家たちの認識も世とだいたい同じであり、量的に現代では不可能な計算を実現するための機構として、あるいは複数のありうる世界線を同時にシミュレートする機械として、未来世界の設定によく登場する。未来が現代の延長線上にしか描かれない以上、それは仕方のないことである。

 

 けれどわたしは、量子コンピュータの中身をおそらくたいていの人間よりよく知っている。だからそれを無責任な記号として、自分の書く文章の中に登場させることには、それなりに抵抗がある。そういう抵抗は捨ててしまったほうが楽だと知ってはいるけれど、とはいえ簡単に捨てられるようなものでもない。