現代とは未来である

わたしの日常生活に、もはやチャット AI は欠かせないものになっている。チャット AI とはつまるところ現代の技術であり、現代に住むわたしたちは、その恩恵を実際に享受している張本人なのだ。けれどもなぜだか、そのことを語る文脈はいつも、まるで現代ではなく近未来のことを語っているかのように、初々しく未画定な期待感を身にまとってしまうのである。

 

世界が加速度的な発展を遂げると、言われ続けて何十年。そのあいだのどの時代にも、真新しい技術がたしかにあった。十年前であれば、スマートフォン。二十年前の世界はまだファックスの全盛期であり、インターネットはきっと、期待の技術の域を出てなどいなかった。

 

その間、わたしたちはつねに「普通」の生活を送っていた。もちろん「普通」の定義は時代によって変わっていくわけだから、実際に送っている生活は刻々と変化していたわけだ。けれどもわたしたちの生活が「普通」であるという事実は、きっとずっと変わらなかった。

 

そして。どの時代でも、生活が「普通」であるとは、それが最新のなにかを含まないという、言外の意味を含んでいたはずである。

 

チャット AI の活躍する世界は現実だ。しかしそれはけっして、「普通」ではない。わたしたちの知っている「普通」の世界の人工知能とは、あらかじめ仕組まれた応答をするだけのプログラムだ。あるいは、人間がした質問の内容から単語だけを切り取って検索し、ウィキペディアの見当違いのページを読み上げる、役立たずで無能なアシスタントのことだ。「普通」とはいまのところ、精緻な言語モデルから巧妙な嘘をつく最近の AI のことではまったくない。

 

世界を描写するとき、ひとは「普通」ではない点に着目する。「普通」ではないものにはいくつかの種類があって、性質に応じてそれぞれ、魔法とか未来科学だとか宇宙人だとか、いろいろな呼び名を持つ。その中で言えばチャット AI は間違いなく、未来科学に分類されるだろう。現代のチャット AI とは、その意味で「未来」なのだ。

 

産業革命以来、どんな時代にもきっと新しい技術があった。そして新しい技術が見つかった瞬間、それは定義上「普通」ではありえない。どんな時代も「普通」ではありえないのならば、そしてそれがいつも科学技術によって先導されたものであるならば、現代とはいつの時代も、常に「未来」だということになる。現代をそのまま描写すれば、それは近未来の描写だということになってしまう。

 

こんなことをわたしは思い出す。テレビドラマの登場人物がスマートフォンを使い出したのは、あれがだいぶ普及してからのことだった。だれかがスマートフォンを持っているということにひとが特別の注意を払わなくなってはじめて、スマートフォンは「普通」に登場できるアイテムになった。それ自体を主題にしなくても、描写が成り立つようになった。

 

チャット AI もおそらく、同じような経過をたどるだろう。あの類の AI を使うということが「普通」のことになってはじめて、ひとは自然に、創作物のなかに AI を登場させることになるだろう。そのときようやく、わたしたちはこう言えるのだ。AI が、「現代」の仲間入りを果たせたのだと。