厳密性の衰退

チャット AI たちがこのまますくすくと育って、この世のたくさんの職業を置き換えたのなら、どんなことが起こるだろう。役所の受付やコールセンター、カウンセリングに内科検診、保険や宗教の勧誘その他、人間と会話することが職務内容であるありとあらゆる仕事から人間が排された社会は、どんなふうになっているだろう。

 

そういう社会は実のところ、そんなに想像に難くない。わたしたちの多くはきっと、ボットたちの素晴らしい応対を見て、遅かれ早かれそんな日が来るだろうと信じている。そうなった世界はあくまで現代の延長線上にあり、その世界についてあれこれ言うことはもしかすると、もう SF ですらないのかもしれない。というか、SF と言い張ればきっと、想像力が足りないとして無視される。

 

とはいえ、そういう世界は面白そうだ。フィクションにして消費するには現実味がありすぎるが、考えを巡らせるにはちょうどいい架空。未来予想図を語るのはわたしの柄じゃないし、予想が希望とともにあればなおさらだけど、一応まだ、未来は妄想のうちにとどまっている。だれもが思い描く未来だとしても、実際に到来しないうちはまだ、細部を無責任に想像してみる余地があるはずだ。

 

現代はおそらく、歴史上もっともものごとが厳密な時代だ。コンピュータ文明の興りは、すべてのものを機械的に、きっかりと管理するすべをわたしたちに与えてくれた。絶対に計算を間違えない表計算ソフト。すべての誤字に線を引く校正機能。締切を一秒でも過ぎれば投稿できなくなるウェブフォーム。ボールが線からはみ出しているかを、スーパースローで確認できるスポーツの審判システム。わたしたちは厳密性に適応し、ものごとに厳密に線を引くという行為に慣れた。

 

しかしながら AI は厳密ではない。わたしたちが最近知った事実は、最強の AI がこれまでの SF 的予想に反し、ぜんぜん厳密ではないということだった。そしてもし未来が、いまのチャットボットのようなシステムを採用するのであれば、わたしたちはきっと再び、一度身につけた厳密性から手を引くことになる。

 

AI は間違える、嘘をつく、だがその嘘はたいていの場合、ものごとの大勢に影響を与えない。AI の嘘と世の中はおそらく共存できるし、そうできないと考える人間は、厳密性という現代の因習に、単に過剰に適応しているだけに違いない。わたしもきっと、非厳密に慣れられるだろう。ほかの大勢が、そうであるのと同じように。

 

厳密性から自由になった世が再びやってくる。すべての間違いを正し、すべての箇所に正確性を期すことが、むしろ病的な偏執だとみなされる世界がやってくる。AI がそうである程度の厳密性が、人間の目指すべき地点になる。厳密性以前の昔とは異なり、だがすこしだけ似ている世界。それがきっとやってくる、の、かもしれない。