喫茶店

 茶を喫する店と書いて喫茶店と読む。「喫する」ということばはいまどき飲み物に対しては使わない気がするけれど、「喫煙」に代表されるように、口を経由してなにかを摂取するという意味がちゃんとある。辞書には第一義にそう書いてあるから調べてみればわかるし、たとえ辞書がなかったとしても、「茶をしばく」と同程度には、聞けば意味がわかる。

 

 喫するものは厳密に言えば茶とは限らず、大方の場合コーヒーである。つまりコーヒーの飲めないわたしは、喫茶店の原義主義者であるとも言える。メニューにはほかにも食べ物系のものもあって、大人の男が一食とみなすには質・量ともに無理があるものを、大人の男が一食を摂れるくらいの値段で提供している。とはいえ茶には茶菓子がつきものであるから、これは喫茶店原義主義の観点に違反するものではない。

 

 そして実態としての喫茶店は茶を喫するための店ではなく、コーヒーを喫するための店でもなく、それを口実にして用意される、ただの長時間利用可能な椅子と机である。

 

 考えてみれば不思議である。座って暇をつぶしたいという需要は確実に存在し、そのためには椅子と机を用意すればいいだけなのにも関わらず、喫茶店は喫茶店であり、ゆえに茶を用意する。机を並べて電源を用意して入場料か利用料を時間割で取ればいいだけなのにも関わらず、利用客から直接代金を徴収する代わりに小洒落たメニューを用意し、そこに書かれた値段をもって利用料とする。もちろん紅茶やコーヒーはそれらの原価よりはるかに高い価格で提供されており、その差額がだいたい場所代になるわけだが、客の意思次第で場所代を好き勝手に調整することができるというのもまた欠陥のあるシステムである。

 

 そしてその、一度席につけばもう離れる必要のないシステムゆえに、ある程度以上の時間居座るのであれば、喫茶店は驚くほど安い。オフィスボックスといった競合が喫茶店にはあるわけだが、二時間もいれば値段は比べ物にならない。ただ椅子と机が用意されているだけの空間に飲み物を一杯つけるとなぜか利用料が下がるという謎の逆転現象がここで起こっている。

 

 これまでわたしは喫茶店を使ってこなかった。貸し会議室のようなものの存在は受け入れられるのに、なぜだかそれに飲み物が付くと、ただ座ることができるということに対して金銭が発生するという事実がことさらに強調されるようで、手が出なかったのだ。飲み物がついて安くなるなら大歓迎なはずなのだから、これもまた非合理な話である。