食事計画

 函館に来ている。人生で二度目だ。

 

 観光はまえ来たときにあらかた済ませているから、今回はとにかく美味い飯を食おうと心に決めてやってきた。早速魚を食おうと店を探したところ、夕方十八時の食事どきなのに、どこもかしこも店を閉めている。スペインでもあるまいし早すぎることはなかろう、子午線を律儀に国内に引いているわが国でこの時間帯は書き入れどきに決まっている、それも需要の多いはずの日曜に……とかしばらくうだうだ考えながらとても準備中には見えない証明の消えた店また店のあいだを歩いていると、ふとたぶん謎が解けた。きっと日曜だから漁船が海に出ておらず、魚の仕入れができないのであろう。

 

 といっても、いくつか空いている店はあった。市場の中の海鮮丼屋にはまばらにひとが入っており、わたしも一瞬、そこに入ろうかと思った。しかしながらわたしは、食にはこだわるほうである。旅先でせっかく食べるのだから、確実に美味しいと言えるものしか食べたくない。それを旅の醍醐味と呼ぶひともおろうが、わたしとしてみれば、ふらりと見つけた店に入って貴重な胃の容量を消費するなど言語道断である。その店の評判をわたしは調べていなかったし、その場で調べようとは思わなかったし、なによりまして、多くの店が定休日である理由に関する自分自身の推理をそれなりに信じていた。

 

 海端で魚を食うのだ、それは新鮮でなければ意味がない。たとえわたしの舌が、最高に新鮮な魚と取れてからまる一日経った魚の味の違いを区別できるほど肥えていなかったとしても、だ。どうせ食べるなら、たとえ嘘だとしても、それが今朝取れたばかりの新鮮な魚であると信じ込んだ状態で口に入れたい。逆に言えば、これはきっと昨日の魚だろうとよこしまな疑念を持っている状態で、最高であるべき食材を食べたくはない。

 

 なんともまあ、面倒くさい選り好みをするようになったものである。同行者がいなくてほんとうによかった。同行者がいたらそのひとにむかって、でたらめな推理に基づく独善的な判断を滔々と語る羽目になっていただろう。

 

 というわけでわたしは予定を変更し、肉を喰らった。北海道名物ジンギスカンである。三日間朝から晩まで魚を食い続ければさすがに飽きるだろうという理性の声を完全に無視して立てた三日間朝から晩まで魚を食い続ける計画は、山の幸は海の幸に絶対に勝てぬのだ、だから山彦は海彦に嫉妬したが逆はないのだ、とかいう屁理屈とともに、こうしてすっかり瓦解したわけである。まあ、いい、肉も美味い。