本当に頭のいいひとは

本当に頭のいいひとは、素人にもわかりやすく説明してくれる。長らくのあいだ市民権を得てきたその考え方がまったく詭弁にすぎないことは、いまどきだれでも知っている。

 

どういう意味で、それは詭弁なのか。そんなこと、あえて語るまでもないかもしれないけれど。一応、明示的な説明を与えておこう。わたしの説明はけっして、素人にもわかりやすいとはいえないだろうが……最低限、持っている前提を統一する役には立ってくれるはずだ。

 

この議論の問題は、頭のいいひとという概念の定義が循環論法になってしまっている点だ。つまり、この定義を信じるひとにとって、「本当に」頭がいいということはつまり、説明が上手だという意味だ。頭の良さは、試験の点数でも業績でも人間性でもなく、説明の要領によってのみ定義される。その意味で頭のいいひとはもちろん、なにをおいてもなお、説明が上手に決まっている。トートロジー。定義とはそういうものだ。

 

さて、では。頭のいいひとの説明は分かりやすい、に類することは、ほんとうには言えるのだろうか。恒真命題によるバイアスを差し引いてもなお、頭のいいひとの説明が分かりやすいのだろうか。それとも分かりやすいのは、相手がなにを分からないかを分かる程度には、頭の悪いひとの説明なのだろうか。

 

こう問いを立ててみたが、まあ、答えるのは難しい。頭がいいという事象の定義はひじょうに曖昧で、どんな命題を示そうにも、さきほどと同じような穴に嵌まり込んでしまう。頭がいいと○○なんだって? ああ、それは頭の良さの定義によりますね。○○を定義にすれば、自明に正しいんじゃないですか?

 

点数が高いではなく、業績が多いではなく、説明がわかりやすいでもなく。単に頭がいい、と言えば、それはきわめて主観的な概念だ。頭がいいひととは、わたしがそう評価したひと。それ以上に、定義のしようがない。

 

にもかかわらず。誰々は頭がいいというのは、わたしたちの社会の中で、なかば共通認識かのように扱われている。

 

説明が上手い。試験の点数がいい。場の空気を感じ取るのに長けている。未知の問題に解決策を見つめる。言語センスが良く、当意即妙なことを言う。頭のよさを定義するためのパラメータたちの、これらはほんの一握りだ。どれをより重視するかはひとによって異なるし、たいていのパラメータはそもそも、単体でも評価は困難だ。けれども頭が良いと言われるために、これらのすべてが必要な形質であることは、きっと共通認識だ。

 

本当に頭のいいひとは、素人にも分かりやすい説明をする。並大抵の試験で落とされることはない。怒られる発言をしない。なんらかの大きな実績を手に入れる。ことば遊びが上手い。これらはすべて同様に正しく、そして同様に間違っている。そんなトートロジーの海に溺れながら、唯一言えることがあるとすれば。

 

「本当に」という形容詞は、ただ主観を強調するだけで、まったくろくなことをしないということだろう。