感動しないもの

 数学の古典的な結果を学ぶと、それはもうたくさんの綺麗な概念に出会うことになる。それらは単純で自然な定義を持ち、だがその単純さからは想像もつかないほど大きな発展を遂げており、随所に強力な結果をちりばめながら、本や論文の中に座している。どこからどうみてもそれらは一部の隙もなくよくできており、未解決な問題は数あれど、基礎的かつ重要なところはそのすべての部分が、有用で綺麗な成果で埋め尽くされている。

 

 だれもが一度はそういう理論に憧れる。本で読む体系はよくまとまっていて、数ヶ月学べばよく理解できるものも多いから、そうした強力で美しい理論のひとつを、自分でも作れるのではないかと夢想する。むろんそれは若さゆえの間違いであり、学ぶことと生み出すこととの質的な違いをまったく理解していなかった過去の自分をいずれは恥じらいとともに思い出すことになるのだが、とにかくひとはだれも、できるならばそういうことをやってみたいと思っているわけである。

 

 比べればスケールが小さくなるが、文章についても同じことが言える。わたしたちは日頃から上手な文章を目にしており、そしてそのいくらかは、まるで文字のひとつひとつがきらきらと輝いているかのような錯覚を覚えるほどに美しくできているし、情景がまるで実体を持っているかのように思えるほど明確に描かれている。数学の理論と違って、それはひとりの人間が作り上げたものだから、わたしたち個々人にも才能さえあれば、そういう素晴らしい文章を書き上げられる可能性はある。とはいえ現実にその才能があるわけではなく、ゆえに数学理論に対する態度とまったく同じようにわたしは、できることならそういうものを書ける人間でありたいというふうに、ただぼんやりとした妄想を膨らませるだけである。

 

 けれども同時にわたしは、およそ研究や創作の原動力となりうる感情のなかで、そういう夢こそがいちばん邪魔な、封印しておくべき感情であると信じている。

 

 なにかに感動するのはなぜか。理由はいろいろ考えられるが、いちばんはそれが、自分の頭の中にはなかった観点だからである。深い感動が欲しければ新しいなにかを摂取するしかなく、感動に足る表現をしたいのであれば自分の中にはなかったなにかを書くしかない。だが創造とは自分の中にあるものを描き出すことであり、自分にできることの寄せ集めでなにかをかたちづくることであり、ゆえに自分自身を感動させる種類のものごととは定義上、自分ではけっして真似のできない類のものだということになる。

 

 隣人に何気なく発したひとことが思いがけなく感心されるという経験は、おそらくだれもがたまにしている。裏を返せば、わたしを感心させるなにかは、それを感動的なものにしようとして作られたものではないのかもしれない。そしてそういう手段で、だれかを予想外に感動させられるものを作れるのであれば、それが一番手っ取り早い。