誇張と嘘

たとえばその年のワインを「百年に一度の出来」と呼んだり、だれかを「千年に一度の逸材」と言って持ち上げたり、さらには新しい映画かなにかを、「史上最高」と言って称賛したり。そういった大げさなことばをひとはけっこう軽率に使い、だから世の中には毎年のように、天文学的確率の事象が起きつづけていることになっている。

 

あるいは小さな奇跡を前に「この時代に生まれて幸せだった」と喜んでみたり、とある野球選手がホームランを打つたびに、「信じられない」と驚いてみせたり。そういった大げさな感情表現をひとはやっぱり軽率に使い、だから世の中は毎日のように、新鮮で巨大なサプライズに満ちあふれていることにもなっている。

 

もちろんそんなことはない。誇張はあくまで誇張であり、真に受けてはいけない。「千年に一度の美少女」とテレビが言ったところでだれも、千年前の美少女とはきっと小野小町のことだろう、などと生真面目な考察をめぐらせたりはしない。しないのである。

 

論理的には単純に嘘でしかないそれらの言明が嘘でありながらにして許されているのはもちろん、それらが嘘であるとだれもが知っているからだ。「百年に一度」という形容は文字通り一世紀にちょうど一回程度の頻度で発生することをけっして意味しておらず、どれくらいの珍しさで起こることに使ってもよい表現なのかと言えば、「百年に一度」と呼んでしまったところで大多数の人間は怒らないくらい、というきわめてあやふやで自己言及的で、頼りがいのない基準に頼らなくてはならないわけである。

 

さて。

 

こんなことはだれでも分かっている。だれでも分かっているのにこんなことを書くのは、わたしの周りには少々、ことばを厳密に解釈しすぎようとするひとが多いからだ。もちろんそのひとたちだってものごとをつねに文字通りに受け取らなければ気が済まないというわけではなく、誇張は誇張だと理解したうえで、ことば遊びとしてあえて、厳密な解釈を試みている。

 

そういうコミュニティで育ったからか、わたしには少々、ことばの厳密性を気にしすぎるきらいがある。他人の書いた文章にいちいちツッコミを入れるほどわたしは無粋ではないか、すくなくともそう信じてはいるとはいえ、いざ自分が書く段になると、なかなかそんな表現を使いにくい。使う場合はもちろんあるけれど、それは大げさにすることそれじたいを面白がっている場合だ。実際に史上最高だと言い切ることはできず、そして明らかに劣るわけでもないものに、わたしは最高ということばを使わないし、使いたいと思うことができない。

 

表現の幅を広げるという意味で、それはよくない。適切な誇張、だれも誤解しないが表現に花を添える嘘を、わたしは学ぶべきである。しかしながらそれはべつに文章に必要不可欠というほどのものではなく、したがってわたしは、きっと死ぬまで――ここで言う「死ぬまで」とはこれから数年という意味だ――ものごとを文字通りに書き続ける。