諦めが早い

書くことが思いつかないと思って過去を振り返ってみれば、一時期、狂ったように生成 AI のことばかり書き続けていた時期があったことを思い出した。あの頃の情熱と執着がどこから来ていたのかは数ヶ月の経ったいまではもう思い出せないけれど、そういうものがあったという事実は覚えていて、つまりわたしはこのところ、AI に対する興味を失っていっているということになるだろう。

 

もちろんその冷却は、世間の動きに呼応している。画像生成のすごいやつが出てきたころやそれが日進月歩の進展を遂げていたころ、あるいは言語モデルのすごいやつが何段階かに分けて登場したころ、世の中に溢れる夢と期待は新鮮だった。だれもが新しい技術を、どう使ったらいいのか考えていた――だれかが考えた使い方をただ享受する、というのではなく。

 

とはいえ世の中はそう簡単には変わらない。AI には今でも夢があるが、実際に夢を具現化できるのはごく少数の人間だけだ。AI の進歩は確実に世の中を変えるだろうと今でもみなが信じているけれど、それが具体的にどういうものなのかを想像できるひとはごく少数で、試してみようと思うひとはさらに少なく、そして実際にできるものは、ひとびとが最初に無責任に夢見た姿より、はるかに限定的なものである。

 

わたしたちは他者へのリスペクトを欠かさない人間である。だから多くの人間が試してダメだったことを、できると信じて取り組んだりはしない。ここ一年の AI は世界に衝撃を与え、実際に多くの人間が衝き動かされるがままになにかを作り、それは例外なく使いにくかったり、オリジナルのものと比べて大差なかった。庶民生活のあらゆるところに AI が入り込む未来をわたしたちは想像していたけれど、そういう時代は現状、なかなか来そうにない。

 

かくしてわたしたちはすでに、AI の可能性を諦めかけている。

 

機械学習は進歩が速い。わたしたちはそう聞きかじって知っており、だからだれもが解決したいと思っているのに短期間のうちに解決されなかった問題は、すべからく難問だと判断しても良いと思っている。できて数ヶ月も経過しているはずの言語モデルがいまだに平気で嘘をつくのは、言語モデルというアイデアそのものが嘘を排除する機能を持っていないのだというふうに考えて、諦める。

 

AI は大したことがなかった。やつらはわたしたちの生活をわずかに便利にし、イラストレーターとの間で新しい社会問題を引き起こしたが、やったことはそれだけだ。通常の科学がいかに遅々たるものかを知らないわたしたちはすでにそう判断しているし、実際に世界を変えるには現状はまだまだ不足で、これから何段階ものブレイクスルーが必要であると信じ始めている。

 

わたしたちは飽きやすく、インスタントな結論に飛びつきやすく、刻一刻とかわる常識の中で生きている。