書きやすい文章

文章には書きやすいものとそうでないものがある。ならば書きやすい文章とは、いったいどういうものだろう。

 

たとえばわたしにとって、この文章は書きやすい。この文章というのはわたしが普段日記で書いているような文章のことで、要するに自分が考えたことをただ書くだけの文章だ。内容はえてして抽象的で、具体的な情景を想起させることは基本的にない。最初に問いを立ててあれこれ考え、あるいはその問いがなぜ問われるのかを説明し、運がよければ最後に結論が出る。

 

反対に、情景描写は書きにくい。情景を描写するならまずはその情景を頭に思い浮かべなければならないわけだが、景色というのは文章のように、脳内に勝手に現れてくるようなものではないからだ。ひとが複数人出てきて話し合っているシーンなんかも書きにくい部類で、というのもそれを書くには、せりふひとつごとに逐一、筆者の視点を違う人物のなかに宿しかえなければならないからだ。

 

そう考えれば書きやすい文章とは、書くことがすべて自分自身の中で完結している文章だ、ということになる。もちろん、あくまでわたしにとって書きやすいものはなにか、という話ではあるが。小説なんかでも、自分の置かれた状況について主人公があれこれ悩んでいる部分を読むと、なんだか自分でも書けそうな気がしてくる。逆に臨場感のある戦闘シーンとかは外部とのインタラクションの塊で、とても気楽には書けない、という気分になってくる。先行研究のサーベイが書きにくいのはすべての文が検索を要求してくるからであり、ではなぜ検索が必要なのかと言えば、先行研究とは筆者が覚えていない、外部の対象であるからだ。

 

さて。中身のほとんどが情景描写で構成された小説を読んだことがある。具体的な描写が苦手なわたしからすれば、よくそんなものを書こうと思ったなぁ、と労力に感嘆するほかはない。だがわたしの想定するような書きにくさを筆者が本当に体感したのかと言えば、必ずしもそうではあるまい。筆者には筆者の得意があり、想像しがたいことだがきっと、抽象論よりも情景描写が書きやすいと思っているひとも存在するのだろう。

 

そういうひとが見ている世界を、わたしは一生見られないだろう。世界を想像すれば、その具体的な部分が眼前にありありと浮かび上がり、だから情景描写とはただ目の前のものを淡々と説明するだけの作業で……、というひとの書く情景描写に、わたしは追いつけるわけがない。けれど逆に言えば、ひとによってはこういうこともありうるかもしれない。抽象論を書くためにはまず、具体的な描写から入ってから、それを捨象するしかないのだと。

 

抽象論を展開することへの心理的障壁の低さは、もしかすればわたしの強みかもしれない。そして仮にそうだとすれば、文章で勝負したければ、わたしは抽象論で勝負すべきなのだ。