ふさわしい文章

良い文章とはなにかという問いには、状況によっていろいろな答えがある。どんな場合にも適した文章の書きかたというものはなく、だからこそわたしたちは、その時々に応じて表現方法を変えていく必要がある。

 

分かりやすい例で言えば、機械の説明書やソフトウェアのドキュメントだろうか。これらはつねに、なににもまして分かりやすく書かれなければならない。分かりやすいと言ってもそれは簡単な話をしてとりあえず相手を納得させればよいという意味ではなく、次に具体的にどういう操作をすればいいかを読んだひとに明確に伝える文章である必要がある。そのためにはすべてを厳密にして、解釈の幅の生じる余地を排さなければならない。厳密かつ明快、それこそが説明書のあるべき姿だ。そのためには、味気ない表現でも構わない。

 

逆に、文学はそうではない。たとえば詩には、厳密さも明快さも求められない。厳密で明快な表現があらわれてはいけないというわけではないし、そのほうがいい場合もあるだろうが、それよりもまず、詩情を伝えられることが第一の要請になる。

 

小説の中の一部には、厳密性が求められる場所も存在する。たとえばミステリもので事件を解き明かした探偵の推理は、犯人の正体を明確に、論理的に言い当てる必要がある。犯人がだれかという点について、解釈の余地が発生してしまっては話にならないからだ。けれどその他の部分――たとえば情景描写や、事件当時の被害者の心情など――に関しては、むしろ読者の想像力を掻き立てる、有機的で詩的な表現が望ましいわけだ。そして明確であるべき部分ですらも、それが小説の一部である以上、完全に無機的な説明で済ませてしまうべきではないのだ。

 

さて。わたしは日記を書いている。日記にふさわしい文章がなんなのかというのは難しい問題に見えて、まったくそんなことはない。より正確に言い換えるなら、どんな文章を書いたところで、それは自動的に日記として適切な文章になる。日記とは書き手の自己満足に過ぎないのだから、だれにも配慮などする必要はない。説明的だろうが情緒的だろうが、読みやすかろうが読みにくかろうが、そんなことはどうでもいい。

 

けれども、それでは元も子もない。どう書こうが構わないのであれば、わざわざこんなことをしたってなんのためにもならない。

 

書くからには良い文章にしたい、とわたしは願う。わたしが書いた文章として、ふさわしいと呼べる文章に。ふさわしくない文章が定義されていない以上、ふさわしい文章だってまた定義されていないのだが、それでも文章は良くしたい。

 

これが日課である以上、現実的な限界はある。だからわたしは、そのための労力をつねに惜しまないとまでは言わない。けれど制約は、きっとそれだけであってほしい。良い文章を目指せない理由があるとしても、それはあくまで、目標が定義されていないからであってほしくはないのだ。