暇と罪

やることがたくさんあるというのは結構いいことで、たとえほとんどすべてのことにまったくやる気が出なかったとしても、唯一まだやってもいいかなと思える作業を見つけてそれに取り掛かれば、残りのタスクは確実に減る。その間ほかのものはまったく無視されるわけだけれど、一応きちんと進めている作業がひとつはあるので、罪悪感とか自己嫌悪とかそういう負の感情を覚えなくて済む。締切のひとつをそれで仮に落としたとしても、間に合わなかった原因がべつの作業にあったのなら、ひとまず自分はちゃんと働いていたのだから、堂々としていられる。

 

とはいえやることはやっぱり、多いより少ないほうがいい。個別のタスクというのは基本的に気乗りのしないものであり、それがいかにマシな作業であったとしても、やっぱりあるよりはないほうがいい。絶対にやりたくないタスクとまだマシなタスクのふたつがある状態は理論上、絶対にやりたくないタスクがひとつあるより悪い状態であり、罪悪感その他と無縁でいられるという屁理屈は、その単純な比較論を覆せるほど強いわけではない。

 

やることを放置している状況は苦しい。案ずるが難く産むが安しというがまさしくその通りであり、放置しているという現状に耐えきれなくなって、締め切りまでずいぶんと時間があるのに手を付けてしまうタスクは多い。ある種のタスクははやく終わらせると信頼されてしまうから、仕事を減らしたいのならなるべくギリギリまで終わらせないほうがいい、とはよく聞くし実際にそうなのだろうと思うけれども、とはいえ目の前にやりたくない仕事があるという閉塞感は、そんな理屈を並べたところで消滅してはくれない。

 

ではやるべきことが、まったくなければどうだろう。お忙しい社会人様においてはそんな状況をきっと夢だと感じるところだろうが、博士課程学生という世の中でもっとも暇な身分においては、それなりによくある状況である。なにか新しいことを始められるという点でそれはいい状態だが、実際にそれをみつけて始めることができるかと言われるとそれは別の問題であり、たいていの場合はただ、怠惰な自分自身を嫌って寝ているうちに、なにか新しく仕事が降ってくる。

 

以上のように考えれば、罪悪感とは暇であることに向けられる感情なのかもしれない。目の前のタスクが何であれ、とにかくなにかに手を付けてさえいれば、罪の意識からわたしたちは自由でいられる。社会的な責任からどれだけ解放されていようが自分が自分でいるということからは逃れられず、だから暇とはつねに悪である。

 

書いているとなんだか、忙しいことが正しいことのように思えてきた。そんなことは絶対にないので、これは唾棄すべき妄言である。