壁打ち

 文章なるものの性質として、以下のような言及を目にした。

 

 いわく文章とは生来、ほかのだれかに見せるためのものである。それがほとんどどんな目的で書かれているにせよそれは最終的に他者の目を逃れ得ず、したがって筆者はそれを、読者に届けるという明確な意図をもって記述するものである。純粋に自分のためだけの文章というものは存在せず、たとえそんなものがあるとして、それはとりとめのないメモ書き以上のものにはけっしてなりえないと、そのひとは主張していた。

 

 一見して、これは間違いであるように見える。日記がその反例であり、未来の自分が依然として自分であると定義するのであれば、自分に向けてのみ書かれた文章は現に存在する。これも日記である以上例外ではなく、現にわたしはこれを読んだ読者がいったいどう思うかなどまったく考えず、自分の満足および能力向上のためだけにこの文章を書いている。

 

 と言いたいところだが、残念ながら厳密な意味で、これはそういう文章ではない。熱心な読者ならきっと知っていることと思うが、わたしの文章のなかにはこのようにしばしば「読者」という単語が出現し、その感じかたを推察したり、場合によっては言い訳をしたりする。これはまぎれもなくわたしが読者の存在を想定していることの証拠であり、ゆえにこの日記は、純粋にわたしのみに向けて書かれたものではない。

 

 では公開しなければこれは自分だけのための文章なのかと言われれば、それもまた違う。わたしはこの場を、文章の練習帳だととらえているからだ。練習であるということは本番を想定しているわけであり、そして本番というものがかならず不特定多数へと向けて書かれるフォーマルな文章になることを考えれば、練習だってまた、読者が存在する状況を想定して行わざるを得ない。

 

 とはいえそれでも、狭い意味ではわたしはやはり、読者を想定していないと思う。わたし個人の内面や経歴についての前提知識のない相手にも伝わる文章を書くことなど、可読性に関する一定の配慮はしているつもりだが、それ以上の、たとえば特定の層に興味を持ってもらうだとか飽きさせないだとか笑わせるだとか不快にさせないだとか逆に気分を害させるだとか、読者個人個人の視点に立った工夫のほうは、とくにしようとはしていない。そしてそれは、他人に読ませる文章を実際に書く立場であったのなら、一発で失格になりうるくらいの怠慢である。

 

 読者との対話なるものが成立したとして、わたしにとってそれは壁打ちである。わたしは読者を想定している、だがそれは情報をただ読解する能力を持ったなんらかの存在を想定しているというだけで、かならずしもなにか有機的な、理性と感情があり、良い文章と悪い文章を見分けるだけの審美眼のある存在を仮定しているわけではない。そして文章と呼べるものを書くという動機のためには、そんな無機的な壁さえあれば、それで十分である。