意味のない音声 ②

 百人一首が揃いも揃って恋愛の歌ばかりであるのと同じように、歌手とは全員例外なく、とんでもない恋愛脳の持ち主だとわたしは素朴に信じていた。そういう恋愛脳から出力された歌を前にすると、そんな浮ついた感情を人前で読み上げて恥ずかしくないのか、となんだか気の毒なような居心地の悪いような嫌な気分になってしまうので、これまでまったく、真面目に歌詞を聞いたり覚えたりしようとはしなかった。

 

 したがってわたしの脳内では、音楽の八割方を占める(と無根拠に信じている)ラブソングの歌詞とは、だいたい以下のようなものだということになっている:

 

 会いたくて いとしくて きみのことを想うたび

 どうして 心が張り裂けてしまいそうだよ

 もしもアンドロイドにでもなって 悩まずにいられたのなら

 きみを忘れられたのなら どんなに楽だっただろう

 

 よりポジティブな(要するに、バカな)ケースでは、以下のようになる:

 

 きみの吐息がぼくの頬を撫でる それは太陽のように熱く

 振り向いてぼくらは口づけを交わす

 瞬間、ぼくらはひとつになる きみの全てがぼくに流れ込んで

 光り、弾け、もうぼくの脳は

 きみのことだけしか考えられない

 

 真面目に聞いたことがないだけあって、いかにもくだらない三文詩である。

 

 現実の歌にこういう歌詞がついているのかわたしは知らない。作曲者のセンスを信頼するならきっとついていないと信じたいが、世の中は需要供給の法則というもので動いているから、その色眼鏡を通して聞き手のセンスを問えば、ついていると言われても驚きはしない。とにかくわたしの偏見によれば恋愛を歌う歌詞なんていうものは全部こんなものであり、そう考えてわたしがはばからない理由のひとつは、わたしが純粋な恋愛そのものをある種バカにしているからでもある。真面目な感情をバカにされて怒る人間は多いが、バカにされたものが恋愛感情であればそれは怒るやつが悪い。そういう世界観でわたしは生きているから、こうやってクソみたいな歌詞もどきを作ってだれかの神経を逆なでしようが良心は痛まない。

 

 けれど恋愛感情でなければ話は別で、ことばというものを好きでいる以上、詩人には敬意を払いたいとわたしは思っている。だからかりにステレオタイプな恋愛脳はいくらでも虚仮にしてよいとしても、それ以外の歌詞のある(わたしの認識では、おそらく少数派の)音楽という芸術そのものを否定するのは一応、避けたいとは思っている。