生成困難性の洞察

昨日のわたしがしたのは、芸術のひとつとしてのイラストについて、それが人間の手によるものなのかどうかが全然気にならないという告白だった。ならばほかの芸術、とくに小説や詩などのことばを用いた芸術に関しても同じ主張があてはまるかどうかというのは、これまた自然に問われるべき問いだろう。

 

結論から言えば、答えはたぶんイエスだ。一冊の本を読んでわたしが感動させられたのであれば、かりにそれが人工知能の作であったとしても、わたしはそれを満足のいく体験であったととらえるだろう。背後の作者の存在を知ることなしにも、わたしはその小説を面白いと評するだろう。

 

とはいえそれはまだ推測に過ぎない。理由は単純で、自動で面白い小説を書いてくれる機会はまだこの世にまだないからだ。AI の書いた小説を読んで感動させられた経験はいまのところわたしにはなく、だから実際にそういう時代が来たとしてどう感じるのかは、現段階での憶測で語るほかはなく、それはえてして不正確なものだ。

 

だが憶測にまったく意味がないわけではない。憶測とは現状の行き先としてありうる未来の姿のひとつなのであって、それは現時点から見れば、ほかのあらゆる未来と等しく平らな価値を持つ。そのときが来るまで、実際に発生する未来を未来のあらゆる可能性のなかから選別することが不可能である以上、わたしたちは粗雑な憶測を真の未来だと信じ込み、その未来を語ってゆくことしかできないのだ。

 

もうすこし詳細に見てみよう。いまのわたしは小説の中に、世界に関する洞察の力を見出している。洞察が深ければ深いほど、観察が鋭ければ鋭いほど、わたしはその小説を興味深いと思う。作中にあらわれるあらゆる意味での景色が、新鮮でかつ腑に落ちる普遍性を兼ね備えていればいるほど、わたしはその小説を名作だと感じる。

 

そういうものは現状、人間にしか書けない。その意味で現代の小説家は偉大であり、ひとがひとである価値がある。わたしは現在、人間の小説と AI の小説をたぶん区別できる。文章の細部に人間の作者が狙って仕込んだ、この世界に対する愛と洞察と皮肉のこもったことばえらびに、わたしはきっと気づくことができる。

 

先人の表層的な受け売りしかできない AI にはまだ、そんな深みは出せない。と、わたしはいまのところ、感じている。

 

けれども。どれほどの洞察のこもった表現だって、それでもやはり、ただの文字列であることには変わりがない。

 

わたしを唸らせる小説を書けることとは、すなわち深い洞察を有することだとわたしは思う。世界への歪んだ、だが不滅の愛を、作中の状況に応じて自在に操る引き出しの広さだと信じる。かりに AI がそれを書けたのならば、もはややつらには知性が備わっているのだと、言い切ってしまって良いと思っている。

 

絵画に関して、そんなことをわたしは思わなかった。絵が描けることを、AI の知性の発露だとはみなさなかった。だが小説に関して、わたしは違うことを思っている。

 

文章というものに関する、これは贔屓目なのかもしれない。絵を綺麗に描くことより深みのある文章を書くほうを、わたしは高次のいとなみだとみなしているのだろう。人間がもっともよく人間性を発揮できる媒体が、文章なのだと信じているのだろう。

 

だがその信仰は、ひょっとすれば、AI の苦手分野をなぞっているだけなのかもしれない。そして人間性とは、AI にできることの補集合として、消去法的に定義されているだけなのかもしれない。