繊細さは罪

繊細さは罪だとわたしは思っているようだ。度を越しているとは言い難い中傷でいちいち傷ついたり、多少センシティブな画像を見るだけで再起不能になったりするのは、基本的に傷つく側が悪いのだと。そしてそのようななにかがかりにわたしの心を傷つけたとすれば、わたしはきっと、わたし自身の感じかたを修正するべきだと考えるだろう。他人のことばを割り切るすべを、あるいはグロテスクなものへの耐性を、あらためて身につけたいと考えることだろう。

 

この考えはしかし、他人に適用すると面倒なことになる。事実、燃える。配慮が足りないと言われる。傷つけたほうが全面的に悪いのだと言われ、取りつく島もなくなる。そしてその場合、正しいのはかれらの側になる。その程度で傷つくなという説教は通じない。そしてかれらに正当性のある理由は、必ずしもかれらが被害者だからだけではない。被害者に全面的な発言権を認めるという現代の因習の影響を差し引いてもなお、かれらの感じかたを断罪してはならない理由がある。

 

傷つくことを悪だとみなすという考えは正当だ。けれどあくまで自分のためのものでなければならない。傷つかないように心を鍛えるのは、このわたしの感情をコントロールするための行動規範なのだ。それはわたしだけの規範であって、他人の規範ではない。だからけっして、他人がどういうことで傷つくべきかを規定してはならないのだ。

 

他人には他人の感じかたがある。わたしは繊細さを罪だと考える、しかし世の中の一部はそうではない。そうではないのだから、尊重せねばならない。現代人には内心の自由というものがある。繊細さを罪だと考える世の中のほうがわたしは生きやすいだろうし、事実そういう社会もありうるだろう。けれどそれでも、みずからの繊細さを罪とみなさないひとが存在するということまでは否定できない。その考えが主流かどうかとは無関係に、かれらは実際に繊細さを不可抗力だと考えている。繊細でない自分になろうという気をかれらは持たないということを、わたしたちは理解せねばならない。

 

「繊細なやつのせいで世の中はどんどん面倒になる」、そう叫ぶひとは多い。叫びたくなる気持ちはわたしも分かる。多少の傷は許容し、傷を受けてしまう自分を律することで傷に対処する世界のほうが、わたし個人は生きやすいとは思う。本当にくだらないことでいちいち傷つくひとを、まっとうに生きろと突き放せる世の中のほうが、わたし個人には合っていると思う。

 

けれど残念ながら、この世はそうなっていない。そうなっていないのだから、やつらの傷に従うほかはない。