意志のあるあなたへ ①

わたしたちの社会は多様性を目指している。わたしたちの理想の社会とは、すべての個人がみずからのバックグラウンドに関係なく一緒に住み、働ける社会だ。そんなユートピアはまだ実現していないけれど、一歩でも近づくためにわたしたちは、受容の仕組みをつくる。

 

わたしたちの社会は一様性を目指している。わたしたちの理想の社会とは、すべての個人がみずからのバックグラウンドに関係なく同一の常識と、同一の思想を持つことができる社会だ。そんなユートピアはまだ実現していないけれど、一歩でも近づくためにわたしたちは、排斥の仕組みをつくる。

 

一見正反対に見えるこれらは実のところ、コインの表裏に過ぎない。現代の社会とは未開であり、その理由は肌の色や性別などの生得的な属性がひとの価値を決めているからだ。反面、想像のなかの進歩的な社会が進歩的であるのは、ひとの価値が思想や常識というひととなりの領域に属するもので決められるだろうからだ。ひとの価値を決める基準は、いつもひとつでなければならない。その基準が思想的なものになればなるほど、社会は外見的に多様になり、内面的に一様になる。

 

極端な思想を持ち、かつそれを隠そうとしないひとびとが世の中にはいる。わたしたちの目指す多様な一様性にとってそういうひとは邪魔だから、かれらを排斥するためのシステムをわたしたちは用意する。現代によみがえったその手の踏絵は、かならずしも刑罰の執行機関を必要としない。必要なのは異端者をあぶりだし、衆目にさらすだけだ。あとは一様性を受け入れた常識人たちが、かれらをいかようにもしてくれる。

 

異端者たちの多くは単に、だれかの「偏った」言説を鵜呑みにしただけだ。わたしたちの一様性にかれらはなんらかの不満を持っており、一様性との逆を行くだれかがその反抗心を満足させにかかる。かれらはまんまとひっかかり、ダークヒーローへと信仰を捧げる。そんな受動的な異端者たちの思想はだから、まったくかれら自身の思想とは呼べない。わたしたちの見方である大勢の常識人たちが、わたしたちの多様性をありのままに受け入れているのとおなじように。

 

けれども。数は多くないがなかには、本物の異端者も存在する。かれらはだれの言説の受け売りでもない自分だけの極端な思想を育て、発信し、そして当然の如く排斥される。かれらが本物かどうかは、発言を見ればすぐに分かる。大多数の追従者たちとちがってかれらのことばには、みずからの論理を確認し、一貫性を担保しようと努力した痕跡がありありと見て取れるからだ。

 

そういうひとびとにわたしは一定の敬意を払うことにしている。かれらに賛同はしないだろうし、かれらのためにわたしたちの一様性を放り出す気もないけれど、かれらのことばへと真摯に耳を傾けることはしたいと思っている。そしてかれらの思想が、現代社会には認めてもらえないけれども筋は通っている主張なのだということは、理解してあげたいと思っている。

 

けれども。踏絵へと群がるひとびとはきっと、そういう区別をしていない。