風呂場の思考

 風呂の中でネタを思いついたつもりだったのだが、ツイッターを見ているうちに忘れてしまった。思い出そうとそこら辺を歩き回ってはみたけれど、直前に見たツイートがずっと頭をぐるぐるしていて、とうてい思い出せそうにない。残念だが、まあ仕方がない。よくあることだから、いちいち気にしてたらやってられない。

 

 風呂というのはなかなかすごいところで、あそこに入っているあいだ、脳は具体的なことを考えなくなる。その事実は諸刃の剣というか、いやべつになにか大きな実害が出るわけじゃないから単にいいことでも悪いことでもあるっていうだけなんだが、とにかく特定の問題について考えようと思ってもぜんぜん上手くいかないかわりに、なんでもいいからなにか発想が欲しいとなったら、風呂はすごく便利なところだ。より理系的に(というか似非理系的に)言い換えれば、蒸気にのぼせてメタな思考ができなくなった結果、思考の流れを制御あるいは阻害するものがなくなり、ありのままの思考がただ、垂れ流される。

 

 問題はわたしが、その思考をすぐに忘れてしまうということだ。風呂の中で思考は同時にひとつしか存在できないのか、なにかいい考えが浮かんだとしても、それを覚えておこうという思考が新しく発生した時点で、もとの思考は湯気のように消えていってしまう。なにか心地よい妄想に浸っていたような気がするけれどその内容はつかみどころがなく、残るものはただ、せっかくの思考がもったいないという感情だけ。

 

 そして奇妙なことに、運よくその思考を脱衣場の外に持ち出せたとして、やっぱりまだほかの思考とくらべて、それは忘れられやすい思考なようだ。

 

 付け焼刃の説明はできる。風呂上がりの脳にはまだ風呂の影響が残っており、つまりはぼーっとしているから、記憶を定着させることが難しい。記憶の面において、風呂上がりとはまだ風呂に入っているような状態なのだ。もちろんこの仮説には根拠がなく、根拠を与えるにはおそらく、面倒くさい科学的なプロセスを経由せねばならない。もちろんわたしにその気はないが、科学的に証明されていないことを主張してはならぬという規則はないからわたしはそれを信じるし、そう言い張る。

 

 ……と、書いていたら思い出した。今日のテーマになるはずだったものがなんだったのか、その答えを。

 

 せっかくだしこれは明日のテーマにしよう。明日になったらきっと忘れているだろうが、心配はない。わたしの記憶をわたしは信頼していないけれど、科学技術なら信頼している。だから大丈夫だ、ここは風呂ではないのだから。

 

 風呂ではできないことの筆頭が、パソコンでメモを取ることである。