非科学的

科学的とはなにか。科学者としての正解を述べればそれは、科学のプロセスにのっとって結果を導くことを指す。科学的に正当な実験と議論によってえられた結果はなんにせよ科学的であり、逆にそうでないもの――神がそう告げたとかそうでなければ倫理的ではないとか――はすべて、非科学的なものに分類される。

 

理系的な模範解答により近づけと言うのなら、答えは「反証可能性」だ。科学が定めるプロセスで導かれる結果は、異なる実験結果が出たのならば自動的に覆されうる。実際のところ、「科学的」に導かれた結果は科学の無矛盾性という信仰によりけっして覆されはしないはずだけれど、これはあくまで思考実験の中の話なので問題はない。思考実験として異なる結果は異なる結論を生む、科学はそういうふうになっている。

 

「科学的に証明されている」ということばをわたしは嫌いだ。それは第一にあいまいで、「証明」があるという事実と実際の真実との間に横たわっているわずかだが重要な留保を、無遠慮にぶち抜いているように感じる。「証明されている」という言明が目指すものとは事実を自動的に相手の脳にインストールすることであって、それは反証という思考実験の芽を摘む、無批判な思考停止の強制である。

 

しかしながらその無思慮は、なにも科学が「証明」を与える場合だけに発生しているものではないのかもしれない。科学者は「科学的」という概念を、科学のプロセスだとか反証だとかそういった原則論で考えるけれど、実際に「科学的」という表現が意味しているものは必ずしもそれではないようにわたしは感じる。一般的な用法において「科学的」と「真実」のあいだの微妙な隔たりが気にかけられることはないし、それどころか「科学的」とはそのまま、相手にとって理解困難な事実を強制的に押し付けるためのマジックワードとして使われることが多いようにすら、わたしには見える。

 

神の存在は非科学的だと科学は言う。字義通りに解釈すればそれは「神の存在非存在を科学は説明できない」という白旗宣言になるけれど、もちろんそういう解釈をするやつはいない。それは科学は神の存在を否定するという宣言であり、科学イコール真実の公式に当てはめれば同時に、神が存在しないということこそが真実であるという傲慢な宣言でもある。

 

科学は欠点だらけだと科学者は言う。分からないことだらけだから、探究の必要があるのだと言う。だがその信念は同時に、科学の万能性への信仰に依存している。科学的だとか非科学的だとか言うのは、科学が絶対に説明できなさそうなことをはじめから議論の俎上に上げないための予防線である。