思考というデザートは、辞めるときのためにとっておく

世界というおびただしさの前では、わたし個人はちっぽけだ。世界の諸問題に関して、わたしにはいくつも思うところがあるが、その思いををいかに大声で叫ぼうが、わたしの声が実際に世界を変えることはない。

 

そしてだからこそ、わたしの見解は自由だ。世界への影響だけを根拠にするならば、個人のいかなる思想も正当化される。なぜなら、個人がなにを叫ぼうが、世界は変わらないのだから。

 

そしてわたしは、見解が好きだ。様々な種類の突拍子もない見解を検討し、いじくりまわし、だれも主張していないような見解をつくりだすのが好きだ。そうして、みずからの奇怪な見解にわたし自身を沈め、世の中をへんてこな角度から見つめるのが好きだ。

 

そう、わたしの見解とは、最高に自由なわたしだけのおもちゃなのだ。世界のことだけを考える限り、完全完璧に安全な。

 

だがもっとローカルなことを考えるなら、見解は安全ではない。わたしの見解は世界こそ変えないが、わたしの行動は変えてしまうからだ。見解が異様ならば異様なほど、わたしの行動は過激になる。そうして、とりわけみずからが従事することがらについては、過激な行動は悪手なのだ。

 

たとえば、理論研究。研究に従事する身でありながら、わたしは、わたしの研究にどんな意味があるのかわからない。そして十中八九、意味なんてないと思っている。

 

「わたしの研究」ではなく「理論研究」と書いたように、意味がないのはわたしの研究だけではない。じぶんの研究の応用例を語るとき、わたしはいつもその空虚さにさいなまれているが、それはわたしの研究にかぎった話ではない。ほかの研究者の語る応用だって、わたしの語る応用とおなじくらい空虚で、付け焼刃で、嘘くさいのだ。

 

だから論理的に考えれば、理論研究なんて金の無駄だ。わたしたちの研究予算には、どう考えてももっとマシな使い道がある――たとえば、文部科学省のお役人さんたちがたがいの激務を労い、軽井沢の高級コテージに一泊する、といった。そのほうがすくなくとも、だれかが幸せにはなるからだ。

 

というわけで、わたしは無駄に従事する民だ。世の中にはもっと有意義なことがいくらでもあるのに、それでもわたしを無駄にする以上、わたしにはそれ相応の見解が必要だろう。わたしが納得できるほどの、筋の通った見解が。

 

そしていまのわたしの見解は、単純だ。

 

そう、その見解とは。いや、言い訳とは。

わたしはわたしの楽しさのために、研究をしている。

 

さあ、わたしは見解が好きなはずだった。さまざまな見解を検討し、混ぜ合わせ、わたしだけの重厚な見解を紡ぎ出すのが好きなはずだった。そして新たな見解に基づいて、世の中を見つめなおすのが好きなはずだった。

 

だが、この見解は。

それはあまりに単純で、面白さの欠片もない、直情的な思考停止にすぎない。

 

ローカルな件について、奇怪な見解は危険だ。そしてどうやら、わたしは直感的にそれを知っているようだ。わたしの好奇心は旺盛だが、それでもわたしは、わたしが考えるべきでないことを考えないだけの、日和見主義的な分別を身につけているらしい。

 

そしてその日和見主義は、まったく褒められた態度ではない。とりわけ、世の中を最高のコンテンツだと言い張り、思考をゲームとして楽しむ者にとっては。わたしがわたしの見解に誠実であるためには、わたしは研究に関しても、わたし自身の認識を内省し、みずからの心をえぐり、あらたな認識をつくりだしてことばにしなければならないはずなのだ。

 

だがわたしが研究に従事し、研究を楽しんでいるうちは、その執行は悪手だ。だからわたしは、しばらくだましだましで、研究をやっていくことになるのだろう。

 

そうして、ついにわたしをだましきれなくなったときには。

 

そのときこそ、わたしは研究への見解を確かにする。そしてそのとき。

それこそが、わたしの研究の、最高のデザートになるのだ。