音楽を聴く習慣

 流行に頓着しないのは昔からなようで、中高生のころまわりのほぼ全員が持っていた音楽再生機器を、わたしは持っていなかった。べつに羨ましいとは思わなかったし、聴きたいものもなかったから持っていたとしてきっとゲーム専用機になるか、あるいは家で文鎮になっていたような気がするのだけれど、とにかくそのままわたしは、音楽を聴く習慣をついに持たずにこの歳になった。

 

 そういえば、高いイアホンは音質が違うとかいうことをあのころはみんなよく言っていた。音楽を聴かないわたしには当然分からない価値観なのだが、とにかく良いイアホンを持つということは高校生活において、どうやらなくてはならない不可欠のものらしかった。イアホンを忘れたから慌ててコンビニで買った、と言いながら遅刻ギリギリで駆け込んでくる友人の姿を見て、家に帰るまでの数時間すら待てないのか、となかば呆れたような記憶もあった。

 

 安いイアホンはダメだというかれらの会話が本心からのものだったのか、それとも自分が芸術の繊細さを解する人間だという高校生なりの見栄の張りかただったのかはいまでもよく分からないし、かりに本心だったとして、わたしがその違いの分かる耳を持っているのかもわからない。iPhone のおまけを使っていると言うと驚かれることと、あれは意外と悪くないと言われることが半々くらいで、だからとりあえず後者を信じることにしているけれど、わたしにとってそれが正しいのかについてはもちろん分からない。どちらにせよ当時のわたしはそもそもイアホンなど持っていなかったから、かれらと対峙するときは、そこらへんで普通に売られている品がそんなに粗悪なことなどありえないだろう、と、自分から見えない世界を想像するとき特有の浅はかさをもって話をすすめていた。

 

 そしてそれが自分の浅はかさであると認識して反省するようになったいまでも、やはり音楽を聴こうという気持ちにはなってこない。リズムゲームの曲だとか Youtube の広告とかで偶然出会った音楽を、いいなと思って数日のあいだ聴き漁ってみたことは何度かあるのだが、結局すぐに飽きてしまって、そこからジャンルにのめり込むというか、そういうことにはなかなかならない。

 

 趣味とはいくつになってから始めてもいいのだ、と訓示を垂れるひとがいる。マイナーな趣味においてそれはきっと正しく、実際に五十から始めてのめり込んでいますとか、そういうひともけっこう見る。けれど音楽を聴くなどというメジャーもメジャーな趣味、むしろやっていないほうが異常だと言えるような趣味でも、きっとそれは成り立つのだろうか? 「健全な」高校生活を送り、年相応の感性を培ってきていることがもはや社会常識とも呼べるそんな趣味には、その文化を持たぬ異邦人を受け入れる素地があるのだろうか?

 

 まあべつに、受け入れられなかったところで問題はない。自分から常識に出遅れておきながら常識の側が間違っていると騒ぎ立てるほど、わたしは他責的ではないつもりだ。だからここでは単に、こんな人間も存在するのだということを記すだけ記して、終わりにしようと思う。