意志のないわたしへ

分断された社会のこちら側で、数々のルールが作られてゆく。常識と呼ばれる概念は毎年のように拡張され、それに順応できなかったひとびとに時代遅れの汚名を着せる。いわくかれらは、価値観のアップデートができていない。十年前に当たり前のように許されていたことを、わたしたちはけっして信じ続けられない。

 

多様な価値観を尊重するべきだとひとは言う。いろいろなひとがいることこそが次なる世界への鍵なのだと。そう主張するひとびとこそが思想を矯正するルールを作りたがる張本人であるという皮肉は、単に馬鹿にして笑い飛ばせばいいものだろうか。あるいはビッグ・ブラザーの名のもとに真理を捻じ曲げる真理省と、同じ部類の確信的な犯行だとみなすべきことなのだろうか。

 

とにもかくにも、わたしたちは一様化している。ほとんどの問題に対し、すくなくとも見かけ上、許される言説はいつもひとつだ。この多様性の時代に自立した人間として認めてもらうためにはまず、特定の価値観を持たなければならない。認められるべき多様性とはあくまで肌の色や性別に関する多様性であって、思考様式の多様性ではないのだから。

 

さて。しばしば勘違いされがちなのだが、アップデートされた価値観を持っているということはべつにそのひとの優秀さを意味するものではない。頭脳の柔軟性を示しはするかもしれないが、それだけだ。というのも、わたしたちに従うには単に、なにも考えなければいいからだ。自分の価値観というものを持たず、複数の価値観のあいだの取捨選択に興味を持たず、結果としてわたしたちの一様性にとくに反発しないのであれば、価値観は自然と最新になる。自分の属する世間の潮流を疑問に思えるだけの自我と、そこからあえて外れようという強固な意志がなければ、けっしてアウトサイダーにはなりえない。

 

わたしを含めたほとんどの人間はかくして、一様性からあえて逃れようとしない。たいていの人間にはきっと、自我がない。わたしたちの一様性が標榜しているこどもだましの理屈に、とくに疑問を抱かない。かくいうわたしはといえば一応、やつらとは違うとは思っている。一様性を一様性だと看破できるくらいの自我が、わたしには備わっていると信じている。けれども意志のほうはない。だからこそ常識人を演じながら、こんなところにひっそりと愚痴を書き連ねているわけだ。

 

意志がないおかげでわたしは、わたしたちの社会にいつづけていられる。自我がないせいで自動的に常識人になってしまうひとびとを馬鹿にしながら、それでもかれらと同じ場所に立ち続けられている。そしてわたしは、わたしが決してなろうとしないであろう存在に憧れるわけだ。

 

つまりは。自我も意志もあり、非常識な思想に基づいて行動を起こした結果としてわたしたちの一様性から爪はじきにされた、真なる多様性の体現者に。